著作権に論理的根拠がないと考えるに至った経緯

学生時代ギターが楽しくなって、midiサイトが流行っていたのもあってひたすら曲を作りまくる

やってるうちになんか作曲って既存のパーツを組み合わせて作るプラモデルみたいと思い始める。パーツの選択肢が異常に多いプラモデル。

大学のゼミで、既存の物語をバラバラに分解したものを大量に用意して、適当に組み合わせれば新しい物語が作れるんだというラジカルな研究をしていて、直感的にも理屈的にもこれが正しいやり方だと確信する。

理系の研究室だったので、理系の人達に「そんな適当につくった物語なんて”意味”がないじゃん」みたいな感じでつっこみをうけまくる。

東浩紀さんの影響もありフランス現代思想を見てみたら、「テキストの意味は読者が与えている(作者の死)」とか「全てのテキストは他のテキストと参照関係にある(間テクスト性)」とかいろいろあって、頭の良い文系の人達ってすげえと思う。これで”意味”問題に反論可能になる。

そして2010年代、DNNの躍進の中でRNNという文章生成技術が注目されて、このRNNというのがまさにプラモデルみたいなやり方で、ビッグデータという大量パーツをパターンに沿って組み立てていくやり方で新しい文章を生成していて、ああ理系の技術が文系に追いついたなぁと感じる。理系側が独自に人間の脳を模倣する方法で進めていったらいつの間にか文系分野のフランス現代思想にたどり着いたっていうのがやっぱり面白くて、こういうことが起こる時ってそこにたどり着く必然性があったはずなので、フランス現代思想の正しさが立証されたようにも感じます。


と、そんな感じですかね。

RNNによる文章生成のやり方って人間のそれにかなり近いと思っているのだけど、これってけっきょく新しい文章は既存文章の複雑な組み合わせでしかないってことですよ。そうすると著作権ってなんなんだってなりますよね。著作権を主張しているその作品自体も他の作品の組み合わせだし、他の作品への参照なしには何も作れないのですから。

したがって、著作権というのは純粋に政治的なものであって、論理的な根拠はない、と考えるに至ったのでした。



おしまい




蛇足ですけど、物語が持ってる”意味”って何だろうと考えるときに、僕も文系専門にやっていたわけではないのでざっくりなんですけど、

①物質はその裏側に真の姿を持って実在している。
 →東京タワーは東京タワーとして実在しているから誰が見ても東京タワー

②物質に真の姿なんて本当にあるんかいな。カテゴライズされてるだけじゃね。
 →東京タワーは東京タワーとしての属性をたくさん持ってるから誰が見ても東京タワー

③見た人がその物に意味があるように感じてるだけで、それこそ見た人の数だけ意味があるんじゃね。
 →多くの人が東京タワーと呼んでいる、単に整形された鉄の塊がそこにあるだけ。

みたいな流れなんですかね。

①が紀元前からの考え方で、②が200年前で、③になったのが50年くらい前かな?
ただ、①は人間の直感に則しているから、いまだに多くの人は①の世界認識だったりするのですよね。