自己啓発の問題点と小さな失敗について

ここ数年、SNSはすっかり自己啓発の場になったように思う。こんまりは大活躍だし、キュレーターや、ホリエモンひろゆきなども自己啓発的な発信がずいぶん増えた。


自己啓発に対しては賛否両論あるが、自己啓発を支持する人にはある基本的な価値観があると思う。それは「不特定多数のやる気を煽ることはプラスにしかならない」というものだ。


僕もこの価値観を支持してきた。自己啓発本を出版して、一万人の読者がいて、そのうち100人くらいでも何か感化されて生活を少しでも変化させられたなら十分じゃないかと。残りの9900人も多少の本の出費と読むのにかかった時間以外はマイナスにはなってない。


その一方で自己啓発がなぜ駄目なのかについてもずっと考えていたのだが、僕はこの9900人のことをあまり考えていなかったのかもしれない。失敗することとその影響について考えていなかった。



「失敗は経験」というのは自己啓発側の方達にとっての基本的なスタンスだ。


さて、自己啓発本の読者は「自己啓発本を読んで内容を理解したけど行動に移せず変われなかった」層が圧倒的マジョリティだろう。生活リズムはそう簡単には変えられない。そしてその「変われなかった」体験は、小さな、しかし明確な失敗体験である。生活を変えてみて失敗してしまった失敗体験は経験になると思う。でも「変われなかった」というあまりにも小さな失敗は、経験に転嫁されないのではないか。


この「変わろうとして変われなかった」という失敗体験はほんの少しだけ読者を萎えさせる。去勢をする。失敗を何度も繰り返していると、やる気の低下の積み重ねがある閾値を超えたところで「どうせやっても無駄だろう」的な思考に陥る。ドーパミンが上手く働かなくなる。


そこで自己啓発を評価する場合にはこの失敗を考慮にいれる必要があるだろう。「100人の成功者」と「9900人の失敗者」とを生み出した自己啓発本は、プラスマイナスはどうなっているのだろうか、と。この例のような成功率1%では、社会に対してマイナス面が大きいのではないかというのが、自己啓発の問題点として考えていることだ。


これは自己啓発の問題というよりは成功率の問題だろう。成功率を上げるためには、一般的に確かなロジックに裏打ちされている内容にするか、あるいは自分のロジックが刺さる読者に絞ることだ。逆に言えば、なんの裏打ちもない自分の体験談を書いただけのものを幅広い読者に対して売るのは、多くの失敗者を生み出し、それは上述した理由により問題があるといえそうである。


まあ自己啓発のもっと根本的な問題は、成功と失敗の明確なモデルを提示するところだろうか。去勢を防ぐためには、成功と失敗とがぼんやりしていた方がいい。

GWはチャンピオンズリーグ準決勝

いよいよ今年のチャンピオンズリーグも準決勝。1年の区切りというとお正月とか新年度とかあるが、サッカー好きな人は6月のチャンピオンズリーグ決勝が終わって今年も1年終わったーと感じる人は多いと思う。その時間感覚でいうと今年ももう師走である。


今年のCL準決勝は以下の組み合わせ。


昨シーズンまで絶対王者だったレアルマドリードクリロナが抜けたりして大混乱期に入っていて、今シーズンのCLは群雄割拠。どうなるか楽しみ。


リヴァプール vs バルセロナ

昨シーズン準優勝のリヴァプールと名門バルセロナとの好カード。お互いに今季のプレミアリーグとスペインリーグで首位同士と、まさに頂上決戦といえる。


リヴァプールドルトムント香川真司を見出した男として日本の人にも馴染みの深いユルゲン・クロップが監督。ドルトムントでもおなじみだった縦に速いクロップのサッカーに対して、サラーとマネという両エースが非常にフィットしていて、一気に欧州のトップクラブに躍り出た。リヴァプールはベスト4の中では優勝候補の筆頭だろう。不安材料としては他のビッグクラブと比べて選手層の薄さが目立つところか。特にサラー/マネ/ファビーニョあたりは代えが効かないので、決勝まで怪我無くいってほしい。


バルセロナは意外にも4年ぶりのベスト4。2010年代初頭の最強を誇ったチームのイメージがいまだに強いが、もう当時のメンバーで残っているのはメッシ/ブスケツ/ピケくらいだろうか。コウチーニョデンベレなどスター性のある新しい選手も活躍しているが、今のバルセロナは昔以上にメッシ中心のチームになっている。準決勝でメッシがどんなプレーを魅せてくれるかが楽しみだ。


トッテナム vs アヤックス

一方のこちらは比較的ダークホース同士のカード。特にアヤックスは今大会の台風の目で、若い才能で溢れかえっている。両チームともビッグクラブを倒してベスト4に上がってきた勢いのあるチームだ。


トッテナムは準々決勝でマンチェスターシティを下して勝ち抜いてきた。シティはチームとしての総合力では現在世界No1のチームだと思うが、激闘の末にトッテナムが倒した。この準々決勝2レグは非常に良いゲームで今大会のハイライトになるかもしれない。

www.nicovideo.jp


また、日本人としてはトッテナムでエースとして活躍しているお隣の韓国代表のソンフンミンも注目だろう。今までアジアでもっとも成功したサッカー選手といえば韓国のパクチソンだと思うが、このままエースとしてチームをCL優勝に導けばその座はソンフンミンのものになるだろう。


一方のアヤックスは今もっとも注目されているチームだ。もともとアヤックスは質の高い若手選手をビッグクラブに送り出すことには定評のあったチームだが、今季のアヤックスにはデ・ヨングをはじめとした将来のスター候補の若手選手がたくさん所属している。そんな才能ある若い選手たちがレアルマドリードユベントスといった優勝候補のビッグクラブを粉砕して勝ち上がってきた。

sportiva.shueisha.co.jp


おそらく来シーズンには今の主力選手たちはビッグクラブへ移籍してしまうだろうから、この若さと才能溢れるチームがみれるのもあとわずか。これはもう見るしかない。



ということで準決勝が楽しみだ。CL準決勝1stレグはGWなので夜更かししても安心!

読解力と多様性

一般的に非寛容は相手視点からの想像力の不足が原因の1つであるといわれている。


ところで想像力とはなんだろう。相手の気持ちを想像するということ。思い返してみると、これは学生時代に国語のテストに出てきた「Aくんが~という行動をしました。なぜAくんはこの行動をしたのでしょうか。」というテキストの読解問題そのものである。つまり想像力というのは読解力のことだと言える。


国語の読解力テストにも答えが1つしかないという問題がある。Aくんの行動理由には本当は複数の可能性があり、答えは確率の高低でしかない。ただそれも一周まわれば「テキストと問題を読み、複数の回答の可能性の候補を見出し、出題者の意図を想像する」というなかなか深い問題だとみなすこともできるが、それにしても最終的な答えが1つしかないというのが読解力の教育という意味では致命的な欠陥だと思う。


そもそもこんな記事を書こうと思ったのは以下のツイートを見かけたからだ。


はっきり言ってこのグラフを見て単純な高齢者批判に向かうのは読解力不足だろう。このグラフは年齢別の能力差を表しているものだが、見方を変えれば、左側が時系列的に新しい教育レベルの成長曲線だと見ることが出来る。この視点を採用すれば、下の世代に対してこれだけの教育環境を整えた高齢者世代には尊敬の念しか出てこない。
(細かいこと言えば、このグラフは相対値なのでそもそも高齢者の能力の絶対値は分からないし、グラフの値域も85~105なので見かけほど驚くような他国との差はない)


この種の読解力不足は今の社会に蔓延している。これは理系的な問題、あるいは文系教育の失敗といえるだろう。文系領域(再現性のない複雑な事象)を扱うには多視点からの解釈(=想像力=読解力)が必要であり、歴史上まったく同じ出来事が繰り返されない程度には人の社会は十分に複雑だ。



そういう経緯で僕は多様性を生むには読解力が重要なのではと考えている。そして東浩紀や落合陽一なども言っているが、読解力を教育するには現代アートがいいのだろうと思う。現代アートは現代の理系的な価値観が正しいとされる社会では「意味不明」だと批判されがちだ。しかしそうではなく「意味不明」「抽象的」であることが実は重要なのだ。


現代アートは読解力のゲームだといえる。「空間の真ん中に便器が1つ置かれているだけ」という作品を観て、作品だけでなく時代背景や作者のパーソナリティなども含めて、作品を読解するゲームなのだ。作者から答えは提示されず、鑑賞者の読解によって様々な解釈が生み出され、解釈の正誤は判定されず、それらの解釈そのものがアートの一部として二次的に消費される。


おそらく現代アート批判を生み出す構造と、現代社会で起こる様々な非寛容な炎上の原因とは直結している。それは多様な解釈の必要性に対する認識の欠如だ。だから、現代アートをなんとか一般的な教育に組み込んで、読解力を教育するのが、多様性を持った社会のためには良いのではないだろうか。


ということで僕もアートをちょっと勉強しようと思います・・・

作品に罪はない・・・(?)

電気グルーヴの事件とその後の作品回収騒動で作品に罪があるとかなんとかが話題になっている。

blogos.com


ネットでは作品に罪はないっていうのが大勢のようなので、物事は複雑に考えるべきだという観点からあえて作品にも罪はあるだろっていうのを少し書いてみる。


そもそも芸術というのは人が人(の作ったもの)を評価するものだ。ある意味ではそれは純粋に人と人とのコミュニケーションなのである。作品の解釈は鑑賞者に委ねられているが、その解釈の過程では作者や時代の文脈へ接続している。作品に罪があるという話では、定期的に話題になるナチスについて参照するのが分かりやすいかもしれない。

newsmatomedia.com


ナチスの制服や鉄十字などは単なるデザインであるが1940年付近の時代の文脈を持っているため、これらを利用することは基本的に禁止事項だ。これらのデザインは大量虐殺という罪を引き受けている。こう書くとナチスを持ち出すのは極端だと感じるかもしれないが、言いたいのは作品が罪をもつことはあるということで、それは作品の文脈の問題であるということだ。


さて、電気グルーヴのドラッグ問題。これはミュージシャンがたまたまドラッグをやっていたという単発的な問題ではなく、ダンスミュージック/クラブカルチャーとドラッグとが深く結びついてきた文脈がある。

jp.residentadvisor.net


音楽とドラッグとが接続しているのもたまたまではない。クラブでダンスミュージックに合わせて朝まで踊るためにドラッグが必要とされたのだ。だから作品やその消費の構造の内部にドラッグがある。


ミュージシャンがドラッグをやっているという事件はこの文脈に直接的に接続している。今回の件で「被害者がいない」として作品に罪はないとしていることが多いが、「ダンスミュージックとドラッグ」の文脈と接続して考えれば、この文化によってたくさんの命が失われているのだ。


したがって作品に罪はないと簡単には言えない。構造としてはダンス+ドラッグから生み出される音楽は、ナチスの制服デザインと同じで負の歴史と接続しているのだ。


まあ先にも書いたがここに書いているのは話を複雑にするための逆説的な話で、僕も回収はやりすぎだと思う。でも多少の複雑さを引き受けて「作品に罪がない」とはどういうことなのかを考えてみるのがいいだろう。坂上忍のようなものを仮想敵にしてあれこれやってたって何の解決にもならない。

言葉の意味の移ろいとWord2Vec

「赤飯を出しましょう」という言葉は何を意味しているだろうかと考えると、何かおめでたい事があってお祝いしようという意味を思いつくだろう。


言葉の意味の移ろい

最近、生配信中に赤飯を喉に詰まらせて窒息死するというかわいそうな事故があった。

breaking-news.jp


僕はお餅は毎年何人も亡くなっているしどう考えてもやばいと思うのであまり食べないようにしてる。お餅系を食べる時は十分気を付けましょう。



この配信では人がカメラの前で窒息死するまでの様が全て生配信されたので、配信やアーカイブを観た人にはかなり強烈なイメージを残した。


冒頭の話題に戻る。


この事故が共有されている中で、リスナーが配信者に「赤飯を出しましょう」とコメントをしたらそれはどのような意味を持っているだろうか。


そこには元々の「お祝い」とは真逆の「死」という意味がついているだろう。


このように言葉の意味と言うのは静的ではなくふらふらしているのだ。



Word2Vec

最近話題のAIにおいては、テキスト解析/生成もホットな領域だ。


Word2Vecというのは有名な手法で、単語と単語が文章中に一緒に出てくる頻度などから全ての単語間の距離を計算する。そうすると言葉の意味が別の言葉で表現することが出来るようになる。たとえば「赤飯」だったら「赤い」「お米」「お祝い」のような別の言葉で表現されるだろう。

www.randpy.tokyo


これはソシュール的、構造主義の延長線上にある言語理論/文学理論とその実装といえる。


実装して動かしてみるというのはけっこう意味があるので、人文系でもWord2Vecなどを使えば構造主義の再解釈も出来たりするのかもしれない。


ところで構造主義というのは静的な構造を扱う領域だ。Word2Vecであれば、決められたコーパスを入力して、その静的な文章中における言葉の構造を分析する。


一方で、現代思想にはポスト構造主義というものがある。この世界は静的ではないというものだ。


前述したように、「赤飯を出しましょう」という言葉の意味はふらふらと移ろいでいる。構造は、常に他の何かに邪魔をされて形を変えていく。



機械学習はまだポスト構造主義を十分に検討出来ていないと思う。おそらく機械学習のエンジニアはWord2Vecで十分に満足している(精度をのぞけば)。こういう時は人文科学がWord2Vecを批評してみたりすると面白いのかなって思う。

2ちゃんねるってけっこういいのでは

最近2ch(現5ch)をちょこちょこと眺めているのだが、あの場で行われている罵り合いがけっこういいなぁって思っている。

個人的にホットなのはこのスレだ。

rio2016.5ch.net


相対性理論決定論か否か」という感じでなかなか良い勢いで罵り合いが続いている。part5くらいにもなってくると議論もずいぶん煮詰まってきていて、いろいろあった末に「相対論的量子論相対性理論といえるか」という争いに移り変わっているようだ。


とにかくそんなようなことで延々と罵り合いを行っている。しかし僕はこの罵り合いがなんだかいいなぁと感じている。SNSと比べてずっとベターだ。不毛な罵り合いにも思えるかもしれないが、少なくとも元々の「相対性理論決定論か否か」という問題設定が罵り合いの末に「相対論的量子論相対性理論といえるか」という議論にたどり着いたという成果は出ている。


ここにも何度か書いているが、SNSというのは閉じた議論のメディアだ。ポジションごとにクラスタが作られて、なにかの問題について話す場合には、同じ意見を持っている内輪に向けて大喜利のように気の利いたことを話す。気の利いたことを言っているようで、同じ意見を持っている人達の中でぐるぐると発信し合っているだけで、「いいね」だけが量産されていく。そしてその安全地帯の中で迂闊な誹謗中傷が次々に生み出されていく。


一方で2chでは、ネトウヨのように板全体が1つのクラスタになっているような場合を除けば、SNSのような安全地帯がない。論理的におかしいことを書きこめば、あっという間に無数の突っ込みが入る。SNSでは、誰かを批判してその誰かに補足されて突っ込まれると、「僕は自分の意見を表明してるだけなのに攻撃してくるなんてひどい」みたいなぬるい事を言いだすケースが溢れている。


これから考えられるのは、SNSは「罵る」のメディアであり、2chは「罵り合い」のメディアであるということだ。そして議論の場としては後者の方がベターなのは明らかである。


一周まわって2ch的なものに何か可能性はないのだろうかと、最近は考えている。

文系脳の必要性

理系学問は再現性のある物事を扱う。ある事象の結果として一意に何が起こるかを考える。あるいはその再現性を利用して製品を作り出す。


どうも最近ではミクロな世界の運動は確率に支配されていて一意ではないということになっているらしいが、まあそんなことを考えているのは一部の物理オタクたちで、生活実感としてはニュートン古典力学のような決定論的世界観で物事を考えている。


ミクロな世界ではラジカルな運動が起こっていても、マクロになれば確率が収束するので物事は一意に定まっていると考えて不都合はないだろう。僕が壁にもたれかかった時に、壁をすり抜けて隣の部屋に行っちゃうなんてことは確率としてはゼロではないが起こらないのである。



ところで話は飛ぶけど、サッカーの試合についてより詳細に予測を出来るのは文系知か理系知かということを一昨日くらいから考えている。これはおそらく文系知が勝るだろうと思う。そしてそれこそが文系の存在価値のはずだと思う。


先も述べたようにこの世界は前提条件から結果を計算可能な決定論的世界であると考えて問題ないだろう。それならばサッカーの試合だって理系が数学を解けば正確に予測出来るはずだが、現実にはそうではない。


カオス理論というものがある。

ja.wikipedia.org


有名なのはバタフライ効果だろう。ブラジルの蝶々の羽ばたきがアメリカでハリケーンを起こし得るというものだ。そのくらいこの世界の事象は複雑に絡み合っていて、一見無関係な事象同士が大きな影響を与える合う可能性がある。そのため、結果を計算をするための初期条件の数が発散してしまい、たとえそれが計算可能な決定論的事象の積み重ねだとしても事実上計算不可能になる。


サッカーの試合結果は決定論的に試合前に確定していると考えられる。しかしサッカーの試合結果を計算するには様々な運動の組み合わせとして考えなければならない。


プレイヤー22人の身体能力、体調、ポジショニングの微妙な違い、あるいは審判の判断も重要だ。天候も試合結果を左右するだろうし、もしかしたら途中で犬が乱入してくるかもしれない。


このような複雑系を理系知で扱うことは難しい。理系は再現性のある事象を扱うが、サッカーの試合は複雑すぎて再現性が得られない。


大雑把にいうと、再現性があるということは単純な事象であるということで、再現性がないということは複雑な事象であるということだ。


さて文系知は一般的に再現性のないことを扱う。歴史を扱うといってもいいだろう。あの人が何を話たとか、あの時何が起きたかとか、そういう歴史上一度だけ起こった事象を調べて解釈・抽象化・一般化するのが文系知である。


つまり文系知というのは物事の複雑さを扱う学問なのだ。


最近は色々と文系がバカにされることが多いご時世である。文学部廃止論も根強い。あの時誰が何を言ったとか、何が起こったかとか、そんなの役に立たないのだから不要であると。まあそれらの批判は多くの場合、文系知のもつ複雑さを理解出来ていないだけだろう。


しかし現にそのような批判が起こっているということは、複雑に考えるということを教育出来ていないとは言える。あるいは文系学問もまた単純なパターン化をしてしまい、研究者が文系学問の複雑さを意識していないということもあるのかもしれない。


最近のネット世論SNSなど理系の作ったプラットフォーム上で単純に考えることを指向している。不倫はダメで、タバコはダメで、安倍はダメで、選挙にいくのは良いことらしい。


単純に考えるということは多くの前提条件を省いているということだ。そんな都合よく前提を省略してしまっていいわけがない。物事の周りにどんな力が働いていたのかを考えなければいけない。それが物事の複雑さを考えるということであり、文系が果たす役割だと思う。