『パラノイア / 初音ミク』制作記

またまた久しぶりに曲をうpしました。

ようつべにも
パラノイア / 初音ミク - YouTube


年々再生数が落ちていっている感じがするけど、まあしょうがないかなあ。もう少し曲作りの頻度を高めたいところです。


本格的にDTMを始めて10年くらいちょこちょことやってきたのだけれど、その中でも今回はわりとDTMが上手くできたような気がします。なのでメモがてら。


使用したソフトシンセ

マルチ音源のHALionがメインで、ドラムとベースは専用音源使いました。

store.shimamura.co.jp


その他、ギターは自分で弾いて録音していて、ノイズや効果音系はニコニコモンズからお借りしました。


使用したプラグイン

基本的にはCubase標準装備のプラグインを使います。


マキシマイザーはInvisibleLimiter。これがなかなかよくて、マスタートラックの音量をガンガン上げてもそれなりに破綻せずに鳴ってくれる気がします。Cubase付属のマルチバンドコンプで少し潰した後、InvisibleLimiterでバコンと音圧を一般的なレベルまで上げて、その状態で各トラックをミックスし直してバランスを調整した感じです。
aom-factory.jp


今回はWavesのDoublerを使ってみました。原音のピッチとタイミングを少しずらした音を重ねて鳴らしてくれるプラグインで、多重録音したような音の広がりを再現するとかいうやつ。右のギターに挿してます。ギターの壁とかいう言葉があるようで、CDとか聴いてると左右2本のギターが鳴っているように聞こえるけど、実際は4本弾いて重ねて鳴らしてるとかで、そうすると音に厚みが出るらしい。まあ、効果のほどはよくわからないけど、今回使ってみました。
https://www.waves.com/plugins/doubler


前回に引き続きR-Bassを多用してます。低音専用のエキサイターです。なかなかがっつり低音が持ち上がります。がっつりかけるとなかなか効果がきついので、薄くかけてる感じです。ボーカルやギターやベースなど、いろいろなトラックにつかってます。
www.minet.jp


Vocalの処理にはNectarを使っています。僕が持っているのはかなり昔に買ったもので、Windows10にインストール出来るか出来ないかの瀬戸際な感じです(^^;)これはボーカル専用のマルチエフェクターで、とりあえずこれさえあればボーカルでやりたいことはだいたい出来るような気がします。
www.tacsystem.com



ミックス/マスタリング

いつもの沼パート。ミックスとマスタリング。今回もけっきょく1か月以上この工程だけに費やしてしまいました。まあたぶんヘッドホンでミックスしているのが良くないのですが、なかなか日本の一般的な住宅事情だとスピーカーミックスはやりにくいところです。


今回は今までとけっこう変えたのが、オケの中低音域(150Hz~500Hzくらいあたりでしょうか)のあたりをイコライザーでがっつり削りました。もうほんと、こんなに削っちゃっていいのかなと思いながら。その分ギターは100Hz~200Hzでしっかり鳴るようにして、音の太さをカバー。


それで100Hz~ギターががっつり鳴っていて音域的にベースと被るので、ベースの音量をかなり絞りました。低音で何か鳴ってる感はありますが、注意して聴かないとベースラインが聴こえないくらいの感じになってると思います。


あと、今までバスドラムはあまり存在感がない方が好みだったのですが、今回はかなり全面に出てきてます。スネアより目立つくらいになってますかね。あまりバスドラムを強調するとバスドラムに支配されてしまう感があまり好きじゃないのですが、まあやっぱりエレクトロミュージックの流れもあって、バスドラムが一番前に出てくる感じが主流ですかねえ。


それで人の歌声も300Hz~600Hzあたりが中心なので、オケの中低音域を削るとボーカルのその音域が十分聴こえるようになって、それなりにミックスしやすい感じになりますかね~。


なんとなく今までリバーブは薄い方がいいとかいう話を鵜呑みにして生きてきたのですが、今回はけっこうがっつりかけています。やっぱり音の質感としてはリバーブの層が原音全体を包んでいる感じが分かるくらいがいい気がします。リバーブのローカットを何Hzに入れればいいのかはなかなかよく分からないです。今回は450Hzくらいでローカットしています。Cubase付属のものを使っているのですが、リバーブは何か評判の良い専用のプラグインを買ってみてもいいかもしれません。


まあそんなこんなで、今回は音圧もそれなりに出ている気がするし、今までの中ではそれなりにミックスは上手くいったような気がします。まあただこれは曲作る時点からミックスのことを意識した構成にしていたので、もっとカオスな感じの、ストリングスとかがっつり鳴ってる系で上手くできるかはまた別問題かもしれません。

【感想】群集心理 / ギュスターヴ・ル・ボン, 桜井 成夫

群集心理をコミカライズしたものがあったので読んでみた。

群衆心理 (まんが学術文庫)

群衆心理 (まんが学術文庫)


19世紀末の心理学者のルボンさんの「群集心理」が元になっている漫画で、この本はインターネット以降の現代社会において基礎教養としてもいい内容だと思う。それに漫画なのであっという間に読める。


「群衆」といわれると自分とは関係ないものと考えがちだが、この本では人間の一般的な性質として群集心理を扱っている。人には特定の刺激を受けると特定の反応をするという一般的な心理のパターンがあり、これを外部からハッキングされると群衆に陥る。らしい。


著者はフランス革命以降の民主化していく社会を「群衆の時代」と評する。今日では、絶対君主制は不自由な社会で、民主主義社会が自由な社会であるという認識が一般的だが、はたして本当にそうなのだろうか?民主主義では国民に主権があるという。個々の人格が尊重されるという。まあ実際、統治者を国民の中から投票によって選ぶのだからそうなのだろう。しかし、その内実を考えてみる。


民主主義での統治者は国民の多数決によって選ばれる。その場合、統治者候補としては多数決を制することが目標になる。そのために多くの人に賛同してもらうための論理や手法を作る。より優れた手法を実践できたものが多数決で勝利し統治者になる。


この視点から見れば、民主主義とは、統治者候補が国民の心理をより上手に操るゲームを日夜繰り広げている社会とみることが出来る。あるいは資本主義にも同様のことが言える。資本家はより多くの資本を集めるために国民の心理を操る。国民は皆このゲームに否応無しに巻き込まれる。


さらに現代ではSNSの時代になってこの状況は加速している。得票数や資産の大きさといった従来の(少し日常生活とは離れた)数値に加えて、閲覧数やフォロワー数やいいね数など、様々な数値が日常の内側に浸透した。これらの数値を増やすためには、他人に見てもらい、いいねを押してもらう必要があるので、他人の心理を操らなければならない。この種のゲームは、もはやいたるところに存在するようになった。


現代社会では、我々は我々の心理をハッキングしようという強い力に常に晒されている。そして、残念ながらこれに対して十分に抵抗するのは難しい。絶対君主制の時代に比べて、現代は本当に自由になったのだろうか。現代とは、個人の人格がハッキングされ、常に他の誰かに操られている時代(=群衆の時代)なのではないだろうか。


まあ、そんなに深刻に考える話でもないとは思うが、そういう話もあるよねということをなんとなく知っているとまた違ってくるのだろうと思う。ということでおすすめな本でした。漫画なのであっという間に読めるし。

『天気の子』の感想

だいぶ前になってしまったけど、新海誠監督の天気の子を観てきた。そういえば感想をどこにも書いていなかったので簡単に書いておこう。



tenkinoko.com


映画を見始めた時の第一印象としては、「雨」に振り切ったなという感じ。


新海誠監督といったらやっぱり雨が印象的。特に都心に降る雨。都心に住んでいると雨というのはとてもジメジメするし邪魔者でしかないのだけれど、田舎にいくと少し違う。以下のように、たとえば紫陽花とかと雨とを組み合わせるとなんとも綺麗な世界になる。


www.youtube.com


新海誠監督は、このように「紫陽花と雨」で出来るような素敵映像を、「山手線と雨」でやっちゃう。それがとにかくすごいというのが特に近年の作品では言われていたのだけれど、天気の子では常に雨が降っているので、「山手線と雨」という自身の特徴を前面に推して来たなと思った。SNSなどでも天気の子を観て「雨も悪くないな」という感想が出ていたので、新海誠監督の雨はなんかすごいのだ。



作品全体の印象としては「君の名は2」だなあという感想だった。それはつまり、全編通してRADWINPSとの共作のような作品となっていて、物語全体を音楽特有の「ノリ」に寄せている。歌詞とかに通じるものがあるけど、物語内で多くを語りすぎず、映像表現やテンポ感を重視することで音楽にノることが出来る。「君の名は」はそういう作品だったけど、天気の子も基本的にはそういう方向の作品だったと思う。



ところで、天気の子に関しては、考察のようなものは宇野常弘さんのものしか読んでいない。


note.mu

今回の『天気の子』は中二病セカイ系全開に振り切ったという趣旨のことを述べている。しかし、僕に言わせれば『天気の子』は全然中二病でもなければセカイ系でもない。

「たとえセカイが滅んでも僕は彼女と一緒にいたい」じゃないと、中二病にもセカイ系にもならない。にもかかわらず、『天気の子』では主人公が銃を撃っても人に当たらない、ヒロインの生還と引き換えに洪水が起きても人が死んだ描写がない。「あの夏の日、あの空の上で、私たちは世界の形を決定的に変えてしまった」というキャッチコピーがこの作品には添えられていたのだけど、果たしてこれは本当にセカイが変わったと言えるのだろうか。もちろん、劇中の「設定」ではそうだ。ヒロインの生還と引き換えに東京が水害によって水没しているのだから。しかし、その代償は一切描かれない。端的に述べて、これではまったく心がざわつかない、と僕は思った。


SNSなどでの反応を見かけると、天気の子は「セカイ系」という文脈で語られている。


ja.wikipedia.org

セカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」


アニメ界全体がエヴァンゲリオンの影響を強く受けていた2000年代にセカイ系作品が多く出てきて、新海誠監督の最初の作品「ほしのこえ」もセカイ系作品の代表作とされている。なので、特にゼロ年代のアニメファンは、「天気の子」を久しぶりにセカイ系が帰ってきたという形で受け止めている。それに対して宇野さんは、天気の子はセカイ系としてはイケてない、という評価をしているようだ。


僕の解釈としては、天気の子は「反」セカイ系だと感じた。セカイ系へのアンチである。それで、まあたしかに今の時代は反セカイ系なのかもしれないなあと、感じたのだった。


天気の子では、主人公とヒロインとがそれぞれ独立して世界を改変する能力を有しており、世界の改変も実は2度行われている。


1度目は、ヒロインが世界を「雨から晴れ」に作り変える。この世界改変は「ヒロインの存在と引き換えに世界を改変する」という、宇野さんのいうところのセカイ系的な犠牲が明確に存在している。この自己犠牲による世界改変は「まどか☆マギカ」と同じ構図で、セカイ系の1つの形だ。自分の存在と引き換えに、世界をより良い形に作り変えた。


物語の視点が主人公にあるので、この改変はあまり語られていないのだけど、改変の直前にヒロインが主人公に対して「晴れてほしい?」と問うて、主人公が「うん」と答えるというやり取りが挿入されていることから、ヒロインの意思で世界が変わったと考えられる。


従来のセカイ系ではこの世界改変を以て物語は完結するが、問題になるのはその後の2度目の世界改変だろう。主人公が世界を「晴れから雨」に作り変える。宇野さんの指摘もここで、この改変には明確な犠牲が支払われていない。


しかし僕の解釈では、この2度目の世界改変は、世界を改変したというよりもむしろ1度目の世界改変をキャンセルしているのだ。自己犠牲とともに実現した1度目の世界改変=セカイ系的世界改変をキャンセルしているのだから、犠牲がないのはむしろ当然だ。ヒロインの犠牲をキャンセルしているのだから。


したがって、天気の子はセカイ系ではなく反セカイ系作品であり、犠牲(=被害者)の存在を善しとしない作品であり、僕はそこに時代の流れを感じたのだった。

釣った魚を食べるということ

幸せに生きるためにはという話は色々あるし、幸福実現党なんていうのもあったりしてうさん臭さしかなくなってきている昨今ですが、まあそれでも幸せについて考えなければ何をしているのか分からないので、幸せに生きていくということについて少し書く。


ところで、僕は最近釣り系ユーチューバーをよく見ている。特に、釣った魚を持って帰って料理して食べるところまでやってるのが面白い。


www.youtube.com


この手の動画をアップしている人達はたくさんいる。そしてだいたい、釣った魚を食べている時はみんな幸せそうなのだ。やっていることは、お刺身を食べているだけなのにもかかわらず。


なぜお刺身を食べるだけでこんなに幸せそうなのかというと、それが何時間か前までまったく確定していなかった偶然の出来事だからだろうと思う。まあもちろん釣りに行っているのだから、お刺身を食べることは半分は必然の出来事といえる。しかし釣りにいけば当然釣れないこともあるし、何のお魚が釣れるかはいよいよわからないので、もう半分は偶然といえる。その偶然を楽しむ。


僕はここに、幸せの本質のようなものを見つける。偶然と幸せとは深く結びついている。偶然を愛することで、幸せに生きていくことが出来るのではないか。


ところが現代社会では、偶然はむしろ敵として扱われている。電車は時間通り来なければならないし、お金の収支は予定通りいかなければならないし、結婚相手の属性情報は確定していなければならない。外食も、何が出てくるか分からない小さな食堂よりもメニューが決まっているチェーン店の方が安心だ。


たとえば、現代社会では以下のような話題には事欠かない。結婚は予定通りでなければならない。

trilltrill.jp


あるいは、ファイナンシャルプランといって、何十年先までの人生の予定を立てることに躍起になっている。


このように偶然性や不測の事態を忌諱する傾向は、今はどんどん強くなっている。日本人の幸福度が低い問題というのはここ10年ばかり話題で、労働時間とか様々な原因が取りざたされているが、根本的には偶然の出来事に対する態度の問題が大きいのではないかと思う。


「釣った魚を食べる」というのは偶然を愛することの象徴だ。たまたま釣れた魚を美味しく食べる。むしろ、たまたま釣れた魚だからこそ美味しい。それは釣りに限らず、あらゆる出来事に対していえる話なのではないだろうか。


もちろんすべて偶然に身を任せようということではないが、半分は必然を求め、もう半分は偶然に対して開かれているスタンスくらいがちょうどいいだろう。

加害者の哲学

東浩紀さんが、反出生主義のようなものへの抵抗として「加害者」の側から考えるという事をおっしゃっている。

note.mu


まあ、内容としては東さんが今まで言ってきた事そのままで、「家族の哲学」に直結している話なのだけれど、「加害者」という概念を打ち出したのはすごく良いなと思った。


近年は、被害者の側から考えるということがほとんど無条件に良い事とされている。つまりそれは、オタクからのヤンキー批判であったり、ブラック企業批判であったり、セクハラ批判であったり、とにかく被害者の論理が色々と溢れている。直近では、京都アニメーションの放火事件に関しての実名報道批判も、被害者のことを考えた動きだろう。


まあもちろん被害者が不利益を負っているのであれば救済されるべきではあるが、これが行き過ぎてしまうと、反出生主義のような「何もしないことが正しい」という方向へ向かう。今はまさに「何もしないことが正しい」世界に突き進んでいるように思う。これは反出生主義のような極端なものに限らず、たとえば「家事も出来ないなら結婚するな」というような声はSNSに溢れている。


「被害者が救済されるならばそれに越したことはないじゃないか」と思うかもしれないが、問題なのは、僕たちは他人と干渉している限り必ず加害者になり得るという事だろう。けっきょく、どんなに良いと思う行動をしていても、人が大勢いればその行動に傷つく人は存在する。


その時に、被害者の側からしか考えられないと、加害者としての自分を受け入れることが出来ず、そんなんで傷つく方がおかしいという話に向かう。「繊細ヤンキー」のような言葉が流行しているのもその傾向だろう。少数の人が傷ついた事自体を認めないのは全体主義的な傾向だろう。


今は、行き過ぎた被害者の哲学へのバランサーとして東さんの言う加害者の哲学が必要なのだと思う。自分が加害者になることとどう向き合い、どう認めていくのか。


まあ、難しい問題ではあるのだけど、「しょうがない」とか「知らんがな」とか、そういう被害者を突き放す言葉をすこし心に置いておくのがいいだろうか。結婚を例にとれば、社会には理想的な結婚生活が出来ない人の方が多いだろうが、ちゃんとした結婚生活を作る能力がないから結婚しないという方向へ突き進むのではなく、駄目な結婚でもしょうがない、それでパートナーが怒っても知らんがな、そういう風に考えていかないと本当に何も出来なくなってしまうだろう。


被害者は救済されるべきではあるが、だからといってすべて救済する必要はないのだ。

インターネットとナショナリズム

インターネットにより社会の細分化と人々の分断が進むと、全体をまとめるものが求められるようになる。それがナショナリズムであり、否定神学的連帯であり、トランプであり反安倍でありN国党である。基本的には友と敵との線引きという発想で、全体をまとめるための思想としては、今のところこれに代わるものはない。




東浩紀さんが家族を推しているのは、家族は友敵でない方法でのまとまりを作れているように見えるからだろう。たしかに、(特に現代の核家族では)家族vs外部という対立はあまり見かけない。むしろ、家族の構成員はそれぞれが外部に出ることを求める。にもかかわらず、連帯している。

多様性を指向し差別を否定すると分断に向かう

先日、昔のインターネットは、様々なアイデンティティを内包していた1つのコミュニティだったからよかったというような記事を書いたけど、なぜそんなことが可能だったのかを悶々と考えていた。


たどり着いた答えは、使い古されたシンプルな考え方だ。友敵理論である。

www.bizlaw.jp


友敵理論は、外に敵を定めることで内の国民を統一するという、ナチスドイツの思想基盤だ。


多様性とまとまりを同時に持っていた昔のインターネット全体が、テレビや企業などの既得権益を敵対勢力としていたのは明白であり、既得権益との対立構造があったからインターネットというコミュニティは成立していたと考えられる。既得権益という敵がいるから、インターネット上で様々なアイデンティティを持つ人たちが、同じ1つの場にいると感じる出来たのだ。


様々なアイデンティティを内包するコミュニティを作るためには外部に敵が必要だと考えることにする。すると多様性を指向するリベラルのジレンマが見えてくる。


①多様性を内包するコミュニティを作るためには友敵が必要。
②多様性を許容するために友敵への区分や対立を否定する。


①と②とはどちらも多様性を指向する立場だが、同時には成り立たない相反する立場だ。そして今のリベラルは②を重視している。そう考えると、今の社会の状況が導き出せる。


「差別を否定するために嫌いなものを許容する」とは近年とてもよく聞く考え方だが、これは②に相当するものだろう。嫌いなものを嫌いなままその存在を許容はする。存在を否定はしないが考え方を肯定もしない。考え方の異なる人を敵にしないように関わらないようにする。これを続けていくと、考え方の同じ人同士が集まってコミュニティを形成して、考え方の違う人同士は関わることなく別々のコミュニティで生きていく。また、同じもの同士で繋がることを是とすれば、繋がり続けるための同調圧力も生まれる。


近年、ネット上には多様性を肯定する言説が溢れているのにも関わらず、分断はどんどんと進んでいる。その理由は、上記のような理由ではないだろうか。敵というものを否定すれば人は上手くまとまる事が出来ず、共生が出来ないのだ。外部に敵がいれば、同じものに敵対しているというだけで、考え方が違っても共生する事ができる。


といっても、やはり友敵でいくのもまずい。韓国は敵だとか、安倍晋三は敵だとか言っていれば色々な人が同じ場に集まる事が出来るだろうが、当人にとってはたまったものではない。


問題はいかに①を他の何かで代替するかだが、その方法はまだ見当たらない。さしあたって今出来るのは②を絶対視せず、それが分断に繋がっていることを認め、やりすぎない事だ。