加速する世界

ホリエモンやメンタリストDaiGoさんはN国に夢中のようだ。

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また別の世界では、オタクvsフェミニストの二項対立に忙しい。


御田寺さんの固定ツイート。

これだけフェミニスト批判しておいてもうなにがやさしいのかよく分かないし、

といいながらフェミニスト在特会(=加害者)扱いなのもよく分からない。また、フェミニストの人達もやりすぎだろう。


これはオタクvsフェミに限らず、最近ではあいちトリエンナーレの表現の不自由展をめぐる騒動などもあった。色々な二項対立によって、各人の立ち位置が鮮明になり、右と左に分かれて大騒動だ。


そんな一方で、こういうものから距離を置きたい人達はこういうものを頑なに拒絶して面白リツイートばかりするようになったし、釣りの人達は釣りのことばかりツイートするし、プログラマーの人達はプログラミングのことばかりツイートする。



少なくともSNS上では、あの人はああだよねと一言で表現出来る、staticな構造の分かりやすい世界へ向けて加速している。千葉雅也さんに言わせると、この分かりやすさはテクノロジーの正当な帰結で、そういう意味ではほとんど無条件に理系が優位という昨今の価値観も考えものだ。



東浩紀さんは、「弱いつながり」だとか「ゆるく考える」だとかというのを著書のタイトルにしている。ここでいう弱いとかゆるいとかいうのは「staticでない」ということだと思う。


まあもちろんそんなのはSNS上だけで現実世界ではぐちゃぐちゃなんだよという話はあるだろうし、そうであってほしいと思う。僕も静的な構造に捕まらずによく分からない感じでやっていこうと思う。まあ、SNSももう少しぐちゃぐちゃしていた方が面白いと思うけど。ちなみに僕はSNSで仕事の愚痴とかを見るのが好きだ。大切な問題は身の周りにある。まあ仕事の愚痴はそれはそれで固定化されてしまうと大変なのだけれど。

連帯の強さと、弱い連帯のオルタナティブ

こちらの記事、最近僕も同じことを考えてた。

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SNS上でオタクコミュニティが作られて、アニメオタクになるのとオタクコミュニティに入るのとがイコールになりつつある昨今。かつてコミュニティに馴染めない痛い人の受け皿となっていたオタクは、もはやその役割を果たしていないように思われる。そうすると、痛い人はどこに向かうのか。


思い出すのは、はるか昔、人知れずアニメ雑誌を買って隠れるように読んでいたこと。もちろんそれは物理的には孤独な行為なのだが、アニメ雑誌の向こう側にいる別の読者たちの存在や、あるいは林原めぐみのラジオの向こう側にいる別のリスナーたちの存在、そんな全く知らない誰かを想像すると孤独な感じはしなかった。


昔のオタクの間には、コミュニケーションが介在しない、全く知らない誰かとの弱い連帯が存在していたように思う。



ところで、連帯の強弱について考えると以下の3つの階層があるように思われる。


1番目、この社会で最も強い連帯は、ナショナリズムや宗教や家族だろう。このためなら人は戦争だってする、形而上世界に支えられたとても強い連帯だ。友敵理論でいうなら、この強い連帯があるから人は人でいられる。


2番目が、会社組織やファンコミュニティのような、いわゆるコミュニティというやつで、直接的なコミュニケーションが介在する連帯だ。SNSの時代ではここがボリュームゾーンで、オンラインサロンなどの流れを見ていても、2020年代もコミュニティ文化がさらに隆盛していくだろう。


そして最も弱い3番目だが、これもまたナショナリズムや宗教や家族だ。これらの連帯は強すぎるので、その副産物として弱い連帯が生まれる。つまり、何もしていなくてもなんとなく国家の一員であるという意識があり、何もしていなくてもなんとなく家族の一員であるという意識があり、他の人もなんとなく同様に感じているだろうという心理的安全がある、弱い連帯だ。



かつて、オタク文化含めサブカルチャーは、このうちの3番目の弱い連帯のオルタナティブを形成していたと思う。作品を通して、どこの誰とも分からない全く知らない誰かとなんとなく連帯した気になる。しかしそれらはSNSの登場によって1つレベルがあがって、2段階目のコミュニティ、コミュニケーションが介在する連帯になった。


オタクに限らず、様々な活動がSNS上でのコミュニケーションに集約されていく現代社会では、3番目の弱い連帯がかなり手薄になっている。


この記事の話題としては痛い人の行先を考えるということだったが、3番目の弱い連帯を必要としているのは何も痛い人だけではなく、多くの普通の人たちが心理的安全を手に入れるために弱い連帯が必要なのだと思う。2番目の強さの連帯たるコミュニティは、コミュニティに参加し続ける努力が必要なので、どこかで疲れて行き詰るのではないかと思うのだ。


もちろん弱い連帯としてのナショナリズムや家族は依然として存在するが、それは最も強い連帯と裏表なので、なにかのきっかけで火が付くと簡単に暴走する。弱い連帯を求めて最も強いナショナリズムが盛り上がるのでは、やはり少し困ってしまう。


ナショナリズムや家族による弱い連帯のオルタナティブをどう再構築していくか、それを考えないといけないのだろうと思う。

人生のみじかさについて / セネカ

通勤中に時間が余ったのでKindleをあさったら、「人生のみじかさについて」という本があったので読んだ。いつの間にか購入してダウンロードしていたみたいだった。情報過多の時代になって記憶力の低下が著しい。

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)


セネカさんの本。古代、ローマ皇帝ネロの教育係だった知識人。といっても著書ではなく、知人宛てに送った手紙が書籍化されたもの。おいお前、そんな多忙な仕事なんてやめちまえ、という手紙だ。


この手紙では人生の”長さ”について語られる。多くの人は死ぬ間際になって人生とはなんと短いのかと嘆く。しかし実際には人生には何十年という十分に長い時間がある。とはいっても人生は有限であり時間は容赦なく過ぎ去っていくが、多くの人はまるで人生が永遠に続くかのように無駄に時間を浪費し、自分の人生のために時間を使うことがなく、最後になって自分のために使った時間の短さに気が付く。


人生の周囲には時間を奪っていくものが溢れている。例えば仕事だ。仕事に多くの時間を費やしてしまえば、自分のために使える時間はその分だけ短くなる。仕事だけではない。酒、恋人や友人、娯楽、創作。あらゆるものが人生から時間を奪っていく。


自分のために生き、長い人生を送るには暇にならなければいけない。しかし多くの人は暇を暇のまま過ごすことが出来ない。時間が出来れば怠惰になり、娯楽に興じ、酒をのみ、恋人とデートや喧嘩をし、あるいは絵を描いたり歌を作ったりする。時間があれば何かを始めたがって、たった一度きりの人生の時間を浪費してしまう。


英知の探求をしている時、暇な時間をすごしているといえる。特に歴史を学ぶことが重要だ。歴史を学び、歴史上の人物たちと親しくなれば、人生を現在から遠い過去へと拡張することが出来る。そうすることによって、人生をより長いものにすることが出来る。



・・・、という感じの本。



ここ最近、「自分の人生を生きる」というのがある種のスローガン的に頭の中にあって、そういう意味ではなかなかタイミングよく読んだ感じがする。まあ、恋人も娯楽も創作活動も、なにもかも時間の浪費にすぎないというのは極端な話かなと思う。特にこれは知人を説得するための手紙だとすれば、内容を盛っている面もあるのかもしれない。


先日読んだ「群集心理」。他者からの評価値の大小が最も重要である民主社会や資本主義社会(そしてそれらを加速するSNS社会)では、他者からの高い評価を得るために他者を操作することが重要となり、社会は評価値獲得ゲームで溢れかえり、結果として人々は他の誰かに操られた状態で生きるようになる(=群衆化)。という話。


「人生のみじかさについて」と「群集心理」とをつなげて考えると、人生の時間の浪費とは、他者に操られたまま時間を過ごしてしまうことと考えることが出来る。現代の社会では自分が他者に操られているかどうかを判断するのはとても難しい。


昨今、「好きな事をやる」ことが自分の人生のために大切だという言説が主流のように思う。例えばYoutuberのように、好きな事を仕事にすることこそが自分のために生きるという事なのだ、と。しかし本当にそうなのだろうか。ゲームを楽しんでいる人は、なぜゲームが好きなのか。誰かの広告に操られているだけなのではないか。創作活動をして作品を発信している人、なぜ創作活動をするのか。創作活動が尊いという社会の規範に捉われているだけなのではないか。まあこれは考え出すとキリがないが、民主社会にこのような性質があるのはたしかで、受動と能動との境界は曖昧だ。


そうそう結論の出る話でもないのだろうけれど、自分の人生を生きるということについてもう少し考えてみようと思う。おそらく唯一意味があるのは、死ぬ間際、資産や地位や名誉や友人や恋人といった諸々のものが全て失われようとしているその時に、自分の人生について何を思うかなのだ。

放浪する

いわゆるサブカルチャー的なクラスタから距離を取ろうと思った。まあ、けものフレンズが流行ったあたりでかなりついていけなくなっていたので決断すべきだったのかもしれない。


京アニ事件が起こった際の悠木碧さんのこのツイートを見た時、これはいよいよ僕には無理な世界になっていると感じた。



悠木碧さんを批判しているわけはない。ただクラスタ全体を包み込むこの空気感が無理だったのだ。


「肯定」の空気感。僕は「否定」も考えたい。


アディオス。と言ってもまあ、何が変わるわけではないのだが。

接続過剰

千葉雅也さんのアメリカ紀行を読んでいる。

アメリカ紀行

アメリカ紀行


まだ途中までしか読んでいないので、おいおいこの本の感想も書くかもしれない。


それとは別にこんな話題が目に入った。

note.mu


ツイッターの空気が変わっちゃってしんどいのでもうやめたー的な話。まあ、よく聞く話。


千葉さんのアメリカ紀行に猫カフェの話が出てくる。どうやら日本人は猫でメンタルを癒しているようだ、しかも実際に回復効果があるっぽい、というような議論がアメリカでされていたという話だ。千葉さんは、日本人のストレスは他者との接続過剰が原因にあり、気まぐれな猫がもたらす気まぐれな接続と切断の体験がストレスを解消しているのではないか、というような感想だったようだ。


ツイッター変わったの話題を見た時に、この猫の話が頭に浮かんだ。


僕の感覚では、10年ほど前のインターネットというのは切断の場だった。つまり、他者と接続過剰になっている現実社会があり、そのような過剰な接続を一旦切断して自由にしてくれる場所としてインターネットは機能していた。


ただ、東日本大震災を契機にして現実社会が次々にインターネットに入り込んできたこの2010年代を経て、今のインターネットは接続過剰をより促進する場になったのだと思う。まあ、インターネットの仕組を考えれば、接続の促進というのがネットの本来の姿だったのだろう。そして切断する体験を求めて猫カフェに行ったり猫の動画を見まくるみたいなことになっている。


”一旦”切断する場所を作ること。接続過剰を回避する術を身につけること。そのためにツイッターをやめたり猫の動画を見まくるのもいいけど、もう少し別の仕方もあるのかもしれない。僕としては、ツイッターに関しては徹底的に自由に呟くことを意識するようにした(そしたら少し楽しくなった)。

【感想】マンガでわかるイスラムvsユダヤ / 古城 武司・吉村 作治

先日読んだ群集心理の漫画版が面白かったので、マンガで分かる的なものをいろいろ読んでみようという事で、この本を読んだ。面白かった。

マンガでわかるイスラムvs.ユダヤ 中東3000年の歴史

マンガでわかるイスラムvs.ユダヤ 中東3000年の歴史


この本は大きく分けて中世以前までと現代以降との2部構成のような感じになっている。ちょうど湾岸戦争の時に初版が出たのもあってか、20世紀の中東を描いた現代パートがとても充実していて、なんで今の中東があんなに混迷を極めているかがよくまとまっている。


アラブの国々の中心に、(アラブ人を追い出す形で)ユダヤ人のイスラエルが建国され、さらに先進諸国の石油の利権争いが加わって、泥沼になっている。


この本にはアラブの春を経由して中東が混迷を深めた2015年にあとがきが加筆されている。それによると、イスラム教では世襲に対するこだわりが非常に強いので民衆の革命による改革は不可能だろうとのことだ。なにせいまだにシーア派スンニ派とに分かれて1000年以上前の後継者選びで揉めているのだから、SNSとかでアラブの春とかやってみても、とてもじゃないが変えられるものではなかった。あの土地では体制を維持したまま社会を安定させるしかないだろうとのことだ。なるほど。


中東では旧約聖書の時代からかれこれもう3000年も争いを続けている。神様がエジプトで暮らしていたユダヤ人にカナン(現代のイスラエル/パレスチナのあたり)の土地を与えたのが発端になり、もともとそこに暮らしていたアラブ系の人達との間で、土地を奪い奪われを繰り返している。


おそらくこれからも当分あの土地が落ち着くことはないのだろう。彼らにとってあの地をめぐった戦いは聖戦であり、正義そのものであり、また、先進国にとってもあの地の石油利権は非常に重要だ。


人類は未だに、エデンの園を追放されて地上をさまよってるだけなのだろう。

ミニマリストのYoutubeばかりみている

ちかごろ、Youtubeミニマリストの人の動画をよくみてるのだけれど、これがなかなか面白い。


ミニマリストタケルさんはミニマリスト界ではなかなかの大物な感じだろうか。ミニマリストの動画を見始めたきっかけになった人。

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個人的に好きなのは「かぜのたみ」さん。まだYoutubeを始めたばかりのようだけど、ミニマリスト界にあっても自分の世界をもっている独特なキャラクターで、笑い方が好き。

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マミさんは物を減らしすぎることなく自然体な生活をしているのがとても好感。都内のワンルーム暮らしのようなので、参考になる人は多そう。

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しぶさんもきっと有名人。上記の人達に比べるとガチ感が高めなミニマリスト

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Youtubeというのは一度観た動画に関連する動画をがんがんレコメンドしてくるので、あるジャンルを観始めたら止まらないのはいいのかわるいのか。


ミニマリストというと勝手に持ち物捨てられたとか色々な話題もあって苦手意識がある人が多いと思うけど、マミさんのようにライトなミニマリストの人も多い。まあ、とにもかくにも、彼等の部屋は綺麗だということだけは疑いようがない事実だ。


僕の部屋はというと、ギター機材はあるわ、PCは何台もあるわ、熱帯魚も飼ってるわ、釣り道具もあるわでミニマリストとはずいぶん程遠い感じなのだけれど、それはそれとして不要なものを捨てるというのは、とくに年をとっていくにつれて、なかなか大切なことのようだ。よく聞くのは、一年使わなかったものは捨てようという話で、これを実践するだけでも家の中はずいぶんと片付くのだろうと思う。


実際やってみると、捨てたり売ったりして物を減らして部屋が広くなっていくというけっこう楽しかったりする。興味がある人はミニマリストの動画を観てみるのもいいかもしれない。