初期ラルクアンシエルの映像をYoutubeで探してみた

Sometime Before I

Kenちゃん加入前のラルク。当時ギタリストのhiro脱退とともにhiro曲は封印されてるので、知らない曲が多い。
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Sometime Before II

Kenちゃん加入後。DUNEリリース半年前。
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SONIC GIG

Sakura加入後。DUNEリリース直前。
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L'Arc~en~Ciel - CLOSE BY DUNE

DUNEツアー①。White Feathersの前段階のものをやってるのが面白い。
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L'Arc~en~Ciel - FEEL OF DUNE

DUNEツアー②。
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ノスタルジーの予感

メジャーデビュー直前。White FeathersのPV的なやつ。
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L'Arc~en~Ciel - In The Air Tour Sense of Time '94

メジャーデビュー後。Tierraツアー。
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L'Arc~en~Ciel In Club '95

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L'Arc~en~Ciel The other side of heavenly '95

Heavenlyツアー。
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L'arc-en-ciel Heavenly ~films~

Heavenlyツアーfinal 日本武道館を中心にした映像集。
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L'Arc en Ciel - Carnival of True eve

Trueツアー。
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the Zombies

復活直前の活動映像集。
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L'Arc〜en〜Ciel 1997 REINCARNATION

Yukihiro加入。復活ライブ。
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新型コロナウイルス所感

時は西暦2020年春、新型コロナウイルスCOVID-19が話題だ。ウイルスに関連する情報もなかなか錯綜していて、大したことないという向きもあれば、まじでやばいという向きもある。


簡単にまとめると以下のような感じだろうか。

楽観的な見方

  • 東京ではそこまで感染拡大はしない。せいぜいインフルエンザ程度の感染力で、そのうち暖かくなって収束する。
  • 毒性が比較的低い。死亡率が数%。検査コストの高さから潜在的な感染者がかなりいることも考えれば、致死率はもっと低いと予想される。
  • ウイルスそのものよりも、それによる中国人への差別的発言などの方が遥かに問題。


悲観的な見方

  • すでに首都圏ではかなり感染が広がっていて、現在は潜伏期で2月末あたりに一気に顕在化する。最終的に6割程度の人が感染する。
  • ウイルスの作用に未知の部分が多く、毒性についての噂が錯綜中。特に「ウイルスが免疫系を破壊する→再感染し、その際には症状が重篤化する」のあたりは本当ならやばいが。
  • 死者5000万人超のスペイン風邪に匹敵する被害になる。

ざっとみてる感じだとこんな感じだろうか。特に「再感染」のあたりの話が本当だとすると、なかなかガチでやばい可能性もある。


まあいずれにしてもウイルスのこともよく分からないし、僕たちに出来ることと言ったら手洗いをしっかりするとか顔を触らないとかなるべく人ごみに行かないとか、そういうことしかない。そして風邪の症状が出たら外出しないというのが重要なことだとは思うが、おそらく政府側からそのような勧告が出ないと、自主規制は出来ないのかなと思う。


伝染病といえば昔は地方病というのがあった。山梨の甲府盆地あたりで流行した人がばったばったと死んでいく病。早い段階で、農作業をすると感染するというのが分かっていたにも関わらず、農民たちは引っ越すどころか農作業をやめることも出来なかった。


今回の新型コロナウイルスも人ごみに行かないことが最大の予防になるのだけれど、わかっていても仕事で都心に行かないというのは難しい。現代でも地方病と同じことになるのだろうか。


藤沢さんの以下のツイートは、このSNS時代の1つの問題点をなかなかついている。


過学習」というキーワードを持ち出してくるのは藤沢さんのインフルエンサー的なセンスの良さだろうか。


東日本大震災から始まった日本のSNS時代は、厄災に対する注意喚起祭りとして始まった。たしかに地震津波は未曽有の大災害だった。しかし以降の原発問題から続いたSNS上での様々な注意喚起は結果的にはかなりスベっていた。大多数の「私」に直接影響する未曾有の大災害や政治的な大問題などはそんな簡単には起こらないからだ。


原発問題以降の9年間を教師データとするならば、あらゆる問題を自分とは関係のない大したことのない問題として処理するのが、未来予測としては一番打率が高くなるという局所最適に陥り、問題を過小評価する。津波の教訓は最悪の事態を想定しようというものだったはずだが、それは10年経ってかなり薄れてきた。


たしかにこれはここ数年のSNSに対して薄々感じていたことではある。といってもまあ、逆に毎回毎回デマとか差別的発言とか大発生というのもたしかに問題なのかもしれないし、このバランスをとるというのはなかなか難しいことだ。まあでもせっかくこんな時だし、体調が悪かったら出勤しないくらいはしてもいいのではと思う。



このウイルスについて、うちの両親は田舎暮らしだからまあ大丈夫かなと思うけど、都心にいる僕や知人たちはどうなるかな。まあなんとなく致死率とか見てる限りは20代~40代くらいの大人ならちゃんと静養すれば大丈夫っしょという感じでいたが、再感染の話次第かなあ。

さいたまスーパーアリーナすごい / ラルクアンシエル MMXX

ラルクが今年に入ってからめっちゃ久しぶりにツアーをしてて、それのさいたまスーパーアリーナ公演に2日間行ってきた。

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www.larc-en-ciel.com


前回のラルクリはクリスマスライブということもありラルクの中でもポップスな部分を強調していたけど、今回のツアーは音響含めてラルクのロック面を強く押し出す感じの演出になっていて、これはこれでめっちゃよかった。


あと僕はラルクのREALというアルバムが好きなんだけど、MMXXではREALの曲が4曲も入っていて個人的にはめっちゃ熱かった。LOVE FLIESとか、20年前の東京ドーム公演の時のギターの音が壁に反響してる感じとか今でも憶えていて、本当に好きなんだよねえ。



ところで、さいたまスーパーアリーナはステージのタイプがいくつかある。

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MMXXではステージがアリーナ中央に配置されていて、客席がその周りを取り囲むというセンターステージというやつだった。そしてこのセンターステージがびっくりするくらいよかった。


3万人の客が入っていたようなので規模感としてはドームと同レベル。ドームでのラルクのライブというともうステージは遥か彼方で、オペラグラスでもないとバンドメンバーはほんとに小っちゃくて動きなんかはとても確認出来ない。


それがこのさいたまスーパーアリーナのセンターステージは3万人入るのにも関わらず、後ろの方の席でもステージがめっちゃ近くて肉眼で表情まで確認出来る。バンドメンバーが最後方の客に向かって「座ってるやん!」とか「スマホいじってるやん!」って突っ込めるくらい近い。


演者としては、センターステージだと360度全方位に対して演出しなければならないという制約がけっこうきついとは思うけど、またさいたまスーパーアリーナのセンターステージを観てみたいなあ。さいたまスーパーアリーナは本当によかった。



ところでラルクアンシエルは今月で結成29年目に突入。これだけ持続しているバンドの力というのはなかなかすごくて、客層も小さい子供から学生、社会人、おばあちゃんまで多種多様。ボーカルのHydeは小さな哲学者で、ここまで多様なファン層を獲得している変なバンドになったのは彼の力だろう。


あと僕がギター始めたのは学生の頃にラルクKenちゃんかっこええなあーと思ったからだけど、その頃はまさか20年後に目の前でKenちゃんがギター弾いてるのを観ることになるとは、思わなかったなあ。


ここまで来るとメンバーへの想いは「みんな長生きしてね」みたいな感じになってきてもうよく分からないのだけれど、とりあえず来年の30周年は楽しもうという感じで。

論理哲学論考 / ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考を読んだ。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)


ウィトゲンシュタインは人文系の中ではなかなか難解と言われることが多いかもしれないけど、これはむしろ理系(特に情報系)の人の方が読みやすいかもしれない。


これは「語られるもの」と「語りえぬもの」の境界についての本で、つまり人が考えることが出来る範囲の境界についての本で現代の情報科学的な見地からするとわりとすんなり咀嚼出来る内容だと思う。


語られるものと語りえぬものとの境界について、僕の解釈ですごく簡単に書くと以下のようになっていると言っている。

①世界は成立している事態で成り立っている。つまり世界とは人が知覚した物事の総体である。

②事態の中で、それ以上分割出来ない事態の最小単位を原子事態と呼ぶ。

③事態に対して人は言葉を与える。それを命題という。特に原子事態に対応する言葉を原子命題という。

④複数の命題の組み合わせとしても、別の1つの命題が作られる。

④「考える」というのは、命題の「真偽」を判定することである。



命題というのは言葉のことだと思っていいと思う。最も単純な原子命題は「空」とか「青」とかであり、これらを組み合わせた「空は青い」も命題という。


考えるというのは、命題の真偽、命題が成立するのかしないのかを判定すること。つまり、考えるというのは真偽関数のことである。


プログラミング言語で書くと以下のように書ける。

func meidai(meidai ...bool) bool {
  :
  : // 与えられた命題(true or false)の組み合わせから真偽値を導く
  :
  return true //or false
}


命題の真偽とはどういうことか。「空」とか「青」とかの原子命題は、成立している事態そのものに対応しているのでtrueだろう。それらの組み合わせ「空は青い」もtrueであろう。しかしtrueである原子命題の組み合わせが必ずtrueになると限らない。たとえば「空は黄色い」は「空」と「黄色」というtrue同士の組み合わせだがfalseになる。


「魔法はある」という空想はfalseの命題として表現出来る。


もちろん命題のtrue/falseが一意に決まるわけではないだろう。たとえば「オタクはキモイ」というシンプルな命題でも、trueにするのかfalseにするのかは簡単には決まらない。(このように一意で決まらないような命題はナンセンスであり、そのような命題が出来てしまうのは言語(原子命題)の問題であるような事も書かれている。)


さらに、「空は青い」という2つの原子命題を組み合わせた命題と、「晴れ」という別の命題とを組み合わせて「晴れた空は青い」という命題が作られる。「晴れた空は青い」はtrueで、「曇りの空は青い」はfalseである。このように命題同士は互いに結合してあたらしい命題が生まれる。


原子命題はたくさんあり、それらを任意に組み合わせた命題となると膨大の数がある。しかもどのようにも命題を組み合わせて新たな命題を生成可能である。


考えるというのは、そんな無限と思えるくらいにたくさん存在する命題についてその真偽を判定することである。


逆に言えば命題として表現出来ない事は考えることが出来ない。あらゆる命題は分解していけば原子命題の組み合わせになるので、原子命題の組み合わせとして表現出来ないことは考えることは出来ない。原子命題というのは単純な事態に対して与えた言葉なので、人は「言葉の組み合わせとして表現出来ないこと」は考える事が出来ない。


それが「語られるもの」と「語りえぬもの」の境界。



論理哲学論考はそんな感じのように読んだ。この本のすごいところは、この内容で20世紀初頭に書かれたことだろう。


「真」と「偽」の2値と、それらを組み合わせて別の「真」と「偽」を導く。それこそが「考える」ことだとウィトゲンシュタインは言っている。これは、0と1の2値と、論理演算「AND OR NOT」だけであらゆる計算を行うコンピューターの発想そのものである。


ちなみに、後にウィトゲンシュタインはこの論理哲学論考の結論を否定したりするようなのであしからず。次は哲学探究を読もうかな。言語ゲーム

芸術について

近頃は芸術について考えることが多い。


週末に暮らしの夢展というのに行ってきた。

panasonic.co.jp


それにあたって少し予習しておこうと思ってモダンデザインについて色々見ていたのだけれど、モダンデザインの成り立ちは非常に興味深かった。


モダンデザイン(近代のデザイン)という言葉からは比較的最近のデザインのことなのかと感じるけど、そもそもデザインという概念は近代から始まっているようだ。だからモダンデザインというのはデザインの元祖なようだ。


近代という時代は産業革命とともに始まる。そしてデザインもまた産業革命に伴って生まれる。


労働の工業化に伴い、物は大量生産される時代になる。それに伴って僕たちは労働者になった。僕たちは商品を大量生産するシステムの一部になって、粛々と目の前の業務をこなしていく。


大量生産以前の世界では、僕たちはみな小さな芸術家だった。それぞれ仕事の成果物にはそれをやった人の個性が表現されていた。


大量生産以降の世界では、僕たちは労働者になり、交換可能な存在として扱われ、成果物からは誰が作ったかはとても読み取れない。むしろ、その仕事を誰がやっても同じに出来るようにマニュアル化することが重要だ。


そんな大量生産の時代に、ある人達はこの状況は人々の心をダメにすると考えた。そこで、大量生産される無機質な商品に対してデザインを加えて(デザインの誕生)、商品を再び芸術作品に近づけて、労働者が再び芸術家に近づくことを指向した。



↑というのが、けっこう心に残った話。まあけっこう盛ってる話で意訳も多い。


この話の面白いところは、芸術の必要性を別の角度から見ているところだ。一般的に「芸術は人生を豊かにする」と言われていたりもするけど、それは「芸術作品」を「鑑賞者」として鑑賞するという意味合いだろう。


実際のところ、今の時代にクリエイターと呼ばれるのは、文学を書いたり、絵を描いたり、音楽を作ったりと、とても限定的な職業に限られている。芸術家と労働者との間には線引きがある。


しかし芸術の必要さというのはそういうことではないのではないか。本来、僕たちの仕事や生活には芸術的な要素がたくさん詰まっている。あの人がやったからこういう結果になる、ということがたくさんある。ある時期まで、僕たちはみな芸術家だった。


しかしたとえばボタン一つ押すだけで誰でも洗濯が出来るようになれば、洗濯からは芸術性は失われる。そうやって、テクノロジーの発達とともに僕たちの人生から芸術というものは奪われていき、芸術家と労働者とは完全に分離され、なんとかかろうじて鑑賞者として生き延びている。


思い立って芸術家になろうと思っても、絵を描くだとか音楽を作るだとか定型的な選択肢に突き進み、そしてそれは全人口から比べたらとても狭い門だ。


僕は趣味で作曲をしたりしてたから、どちらかというと物を生み出した時の感覚を知ってる方じゃないかと思うのだけど、その感覚を、みなが日々の暮らしの中から得られる社会になったら素敵なことだと思う。その1つの試みとしてのモダンデザインというストーリーは、とても良い話だなあと思った。

2010年代によく聴いた音楽

時はすっかり2020年代に突入してしまった。2010年代振り返りみたいなことをやりたいと思いつつ2020年1月ももう終わろうとしているのだけれど、まずは2010年代に好きだった音楽をまとめてみたい。


人間、30代になると新しい音楽を聴かなくなるとよく言われるものだけど、それなりに新しい人たちの音楽も聴けていると思う。ただ、やはり(10年後には古くなってしまう)音楽のモードのようなものに乗っかり続けるのは10代20代のパワーがないと厳しく、聴く音楽はなんとなく歴史を汲んだようなものが多くなる。2010年代の代表的なJPOPアーティストというと米津玄師になりそうだけれど、良い曲だとは思うけどモードを聴きつづけるのはしんどいものなのです。


Chouchou

今一番よく聴いているアーティスト。たしか日本のエレクトロニカが聴きたいなあと思って色々調べてたらChouchouに出会って、あまりの良さにすぐにアルバム全て購入した。とにかく綺麗なという形容がよく似合う。綺麗な歌声、綺麗なメロディ、綺麗な範奏、そしてYoutubeにアップされている数々の綺麗な映像。それでいて、使っている音色はどんどん先進的になっていっている。

特にLUNARIAという曲には思い入れがあって、2010年代で1曲選べといわれたら迷わずChouchouのLUNARIAと答えるだろう。きっとChouchouは一生聴くんだろうなという予感があって、大人になってからそういう音楽に出会えるというのは幸せなことかもしれない。

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Kalafina

ゼロ年代に引き続いて、2010年代前半もアニソンをよく聴いていた。Kalafinaのことは空の境界から知っていてsprinterが好きだったのだけれど、AnifalakさんというKalafinaコピーバンドのライブを観に行ったことがきっかけでめちゃめちゃ聴くようになった。残念ながらSMAP状態になって今は解散状態にある。ただこのグループの3人のハーモニーは素晴らしかったので、必然的な流れで、そのうち復活するんだろうと思っている。


個人的にはやはり1stアルバムのseventh heavenが秀逸だと思うけど、2010年代リリースのものだとneverendingは本当に好きな曲で、解散する前にライブで聴くことが出来たのは本当によかった。

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School Food Punishment

2010年代前半にとてもよく聴いていたバンド。2010年にリリースされたamp-reflectionは名盤。キャッチーなメロディと先進的な電子音をメインにしたアレンジの融合が素晴らしい。残念ながら2ndアルバムをリリース後、音楽性の不一致的なもので解散してしまっている。


代表曲はlight playerだろうか。この曲は本当にかっこよくて、2010年代に聴いた中で一番かっこいい曲はなんじゃろなと考えると、このlight prayerが頭に浮かぶ。

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VAMPS - HYDE

昔から好きなラルクアンシエルがあまり活動しなくなった2010年代だったけど、ボーカルのhydeは精力的に活動を続けていた。VAMPSというバンドを組みよりハードな音楽を指向し、現在では海外のコンポーサーの元でアメリカツアーをやるためにVAMPSを休止してソロ名義での活動を数多く行っている。

僕もしばらくラルクからは遠ざかっていたのだけど、色々あって今はラルクのおっかけみたいな感じでライブがあれば足を運んでいる。

2018年から開始されたソロ第一弾の「WHO’S GONNA SAVE US」はなかなか意欲作で、4つ打ちからサビでハーフタイムになるという、現代の音楽の世界的なモードになっているEDM/ダブステップ的なものをバンドでやろうとしている。これがとてもかっこいい。

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YUC'e

YUC'eを何で聴き始めたのかもうよく覚えていないのだけど、何かの拍子にmacaron moonに出会って、一時期はKawaii Future Bass的なものばかり聴いていた。YUC'eは激しいリズムと大胆な音色の上にポップなボーカルが乗っていて、そのアンバランスさがクセになって聴きはじめると抜け出せない。

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binaria

ゼロ年代の頃からsupercellでもおなじみの「やなぎなぎ」さんが好きだったのだけど、binariaやなぎなぎさんが参加している同人ユニット。ボーカルはやなぎなぎさんとAnnabelさんが務めている。やなぎなぎさんはソロ名義でも活動しているのだけれど、そっちの方は色々なコンポーサーやプロデューサーがついて商業音楽を指向している一方で、binariaやなぎなぎさんのシンガーソングライターとしての面が強調されていて、ソロ名義よりもやなぎなぎさんらしい音楽が聴ける。

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Ryoko Anan

2010年代前半の頃にJazzy Hiphopというのが流行して、色々聴いてみた中で阿南亮子さんの曲がすごく好きになった。元々は作曲家/ピアニストで、誘われてJazzy Hiphopを作ってみたらしい。阿南さんの綺麗なピアノの旋律とHiphopのリズムが融合してめちゃ良い。阿南さんはJazzyHiphopの他にもテレビ番組の音楽も作っていて、そちらのサントラもとてもよかった。

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King Gnu

2010年代最後の年に知り合いにめっちゃ勧められてけっこう聴いたバンド。2019年の紅白にも出場をしていて、今一番勢いのあるバンドになるのかもしれない。馴染み安い綺麗なメロディをJazzyなバンドアレンジで聴かせる。東京事変が思い起こされる。このバンドのギターがけっこう好きで、どう弾けばどんな音が鳴るのか分かっていて上手いと思う。

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まあ、この辺りだろうか。曲単位だと他にも色々聴いたのがあるけど、アーティスト単位でたくさん聴いたなあと思ったのをまとめてみた。


あと、2010年代はユーフォの影響で高校吹奏楽をめっちゃ聴いたなあ。

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コミュニティの時代

こんな増田がいた。

anond.hatelabo.jp


ある作品及び同人界隈のファンだったが、その界隈のノリにうんざりして、作品そのものも見るのも嫌になったという話。


以前もそれらしいことを書いたけれど、SNSがあるので今はおそらく何をやってもコミュニティがついてまわる。趣味について書きこんでいると、同じ趣味の人からフォローされて、フォローしかえして、とやってるといつの間にかファンコミュニティと繋がる。それはもちろん良い面もあるけれど、悪い面にも目を向けないといけないのではないかと近頃は考えている。


従来は、作品とコミュニティとはある程度の距離があった。というよりも、SNSの無い時代にはファンコミュニティといっても直接関わるのはせいぜい十人程度の規模で、今のようなコミュニティはなく、その作品のファンの人達という非常にぼんやりとした連帯があった。


今はその頃と比べて作品とコミュニティとの距離が近い。SNSでは多くのファンの人達とコミュニケーション可能だし、なんならアーティスト本人すらもSNSにいてコミュニティの一部になっていることも多い。作品とコミュニティとの距離が近いため、先の増田なんかもそうだけど、「ファンコミュニティに馴染めない=作品も楽しめない」という図式が出来上がりつつある。


そんなの一人で勝手に楽しめばいいじゃんという意見はあるだろうけど、SNSがある状態で”あえて”一人で楽しむというのはなかなか難しい。だってアーティスト本人だってそこにいるのだから、作品のファンならそこに行かないわけにはいかないだろう。


そもそもサブカル、特にオタク趣味なんかは、学校などのコミュニティに馴染めない人たちにその外側の世界観を与えていた。違う言い方をすれば、避難所のように機能していた。それが、そこにもコミュニティが強制されるようになると、避難所がなくなってしまうのではないか。


というのがまあ、今の問題意識。


なんで僕がこんなことを考え始めたのかというと、夏に「京アニ事件」があって、あの事件にはこの避難所の不在が関係してるのではないかと思っているからだ。容疑者は京アニに小説の投稿までしているので、かつてけっこうガチな京アニファンだったのだと思う。それが色々あって強烈な殺意に転換されていった。その間に何があったのかは、これから取り調べで明らかになってほしいと思う。