夜は短し歩けよ乙女
こちら、2006年に出版された小説。および、それを原作とした2017年公開のアニメーション映画。
- 作者:森見 登美彦
- 発売日: 2008/12/25
- メディア: 文庫
昨今のこんなご時世だから、映画を見返してみた。
黒髪の女の子が、夜の街で酒を飲みまくり、古本市で本を買い、学園祭で演劇に飛び入り出演、という感じで夜の街の三密空間を渡り歩く物語。そして恋する主人公が黒髪の女の子を追いかけて少しずれた三密空間を渡り歩く。
三密が禁止された世の中になった今からみるとなかなか思うところがある。三密というのは文化そのものだと言ってもいいと思える。そして、色々な三密を部外者として観光する黒髪の女の子。
まあコロナ禍がこの先どうなるのかはよく分からないけど、話題の「新しい生活様式」を考える際には、三密や観光を大切を文化として捉えるという視点もあるといいのかなと思う。
ところで、この物語は全て一夜に起こった出来事であるのだが、夜が深まると共に三密空間だらけの街に風邪が流行して街から人がいなくなる。最初に風邪をひいて孤独に寝込んでいたおじいちゃん。そんなおじいちゃんをお見舞いした黒髪の女の子は、おじいちゃんの風邪が街中に広がっているということはおじいちゃんに人の縁があるということなのだ、と言って元気づける。
つまり「風邪」は「縁」のメタファーになっている。風邪の広がりを必死に食い止めようとしているコロナの世界で、それをどう考えるかも難しい話である。
キトリの音楽会 / Kitri
今年に入ってからKitriという人たちにすっかりハマってしまった。Spotifyでランダムに流し聴きしてたらKitriの曲が流れてきて、なにこれめっちゃいいとなったのがきっかけ。
Kitriは姉妹2人の弾き語りユニットで、一台のピアノを姉妹で連弾しながら歌うという一風変わった演奏スタイルが特徴。作詞作曲も自分たちで行っていて、ノスタルジックでかつ先鋭的な面ももつ素敵な楽曲がたくさんある。それが姉妹の綺麗な歌声のハーモニーとピアノの連弾の音色で演奏されていてかっこいい。
そんなKitriは今年の一月にファーストアルバムをリリースして、それに合わせて丁度今頃の時期にツアーも予定されていたのだが、新コロちゃんが猛威をふるっているので残念ながら全公演中止になってしまった。
その代わりといってはあれだが、去年行ったツアーのライブ映像がYoutubeにアップされている。
Kitriのライブの様子はこれで初めて見たのだけど、これがまたかっこよくてますます好きになった。特に「矛盾律」は2人の歌声のハーモニーがとても美しいのと、ピアノ連弾という自分たちのスタイルに捉われずに色々な楽器にチャレンジしているのとで、ほんと大好き。
引きこもりなGWのお供にはキトリの音楽会が良い感じ。
10年後の仕事図鑑 / 堀江貴文・落合陽一
ホリエモンと落合陽一の共著。インターネットの普及とAIの爆発的進化により急速に進む労働環境の変化についての本。
AIやロボット工学の発達により、多くの職業は機械で代替可能になる。最終的にはコストの問題で、人がやった方が効率がよければ人がやるし、機械がやった方が効率がよければ機械がやるようになっていく。また、インターネットの普及により誰でも無数の知識に簡単にアクセス出来るようになった今の時代では、”学校教育”というものも本質的に変わっていくだろう。
本著では様々な職業についてのこれからの予測が1つのテーマになっている。とはいっても、本著中でホリエモンが述べているように、未来は予測不可能なので個別具体的な職業についてどうなるかというのは手相占いのようなもので当てにはならない。しかし激動の時代であることはたしかであり、本著のもう1つのテーマが、激動な時代にどのようなスタンスで生きていくべきかである。
それほど読むのが大変な本ではないので細かいことは置いとくとして、ホリエモンの言っていることは一貫してとてもシンプルで「今を全力で生きる」である。未来の事も過去の事も考える必要はなく、今楽しいことを全力でやろうということだ。
これはニーチェの思想と似ている。絶対善も絶対悪もなく、永劫回帰する本質的に無意味なこの世界で、今この瞬間を全力で肯定して生きていくことが大切である。
ウェブはバカと暇人のもの
新型コロナウイルスについての所感3
つらつらと。
新規感染者数とかについて
自粛の効果のおかげか新型コロナウイルスは感染者数の爆発的増加には至っていない。東京都は相変わらず高い陽性率を保っているが、お近くの埼玉県では効果があがっていて特に発症日ベースで見ると感染者数の増加は明らかにピークアウトしているという報告もある。
ところで、最も重要なのは医療リソースが足りるかどうかで、感染者数というのはその因子にすぎず、日によってばらつきもあるので一喜一憂しないのがいいだろう。
4月下旬で死亡者数が指数関数的な増加を始めるのかは不謹慎ではあるが注目してしまうポイントだろう。BCG仮説などの通り何か見えない力で死亡者数が抑制されるようなら、日本人としてはずいぶん安心であるが、僕としては懐疑的である。
政府からの給付金について
30万円配るとか、いや10万円配るとかが話題だが、そもそも一律の給付金は目的が不明である。経済的な影響が直撃している人にとっては10万円では今月の生活費にもならないし、消費喚起という点では、いま打撃を受けている業界は消費者にお金がないから消費に回らないのではなく、ウイルス回避のために消費を避けているのだ。そこに対してお金を配るというのは、「金を使うな」という命令と「金を使え」という命令を同時に出しているようなもので矛盾している。
そのお金はこれから激増が予想される生活保護や失業保険の財源にまわすのがいいだろう。まあもっとも、日本では「財源」という概念自体がずいぶん捻じ曲がっているので、多くの人がお金なんてその気になれば無限に生み出せると思っていそうではある。実際そうなのかもれいないし、そうじゃないのかもしれない。
ウィズコロナ
収束しない世界で新しい社会の形を目指すというのは魅力的な提案だが、現実ではウィズコロナの世界はとても厳しい。
これは本当に信じられない事件である。
国内ですら地域差別が起こっているのだから、外国人には本当に厳しい世界になるだろう。ウィズコロナとは観光客不在の世界である。そして観光客というのは世界平和の象徴である。観光客とお金と商品とが世界中を血液のように循環するグローバリゼーションの世界では大きな戦争は起きないだろうと思っていたが、それがどういう動きになっていくのだろうか。僕がオリンピックに基本的に賛成なのは多くの観光客の循環を生み出すからだが、2021だか2022だかにオリンピックが開催出来るかはかなり難しい状況ではある。
差別の観点でもう一つ大きな気がかりは、感染済みの人と未感染の人とで社会的な立場が大きく変わるという懸念だ。感染済みの人には自由に移動する許可を与えて経済を回してもらおうなんていう話もちらほら目にするが、そんなことはとても許されない差別であり、もし実施されたら特に若者は我先に感染したがるだろう。
まあ、とりあえず夏になったら全部解決するというワンチャンねらっていこ。
ウィズコロナで人々が日陰で暮らす陰鬱な世界になるのならそれはそれで面白そうではあるのだが、実際にウィズコロナで失われるのはこの社会の日陰の部分であり、移動の自由が制限され人々が道徳と規範とに支配された、より明るい昼の世界になりそうだ。
一番忘れがちで最も重要なことは、新コロちゃんに全員が感染したとしても(少なくとも若年層は)圧倒的に多くの人が生き残るという現実だ。
新型コロナウイルスについての所感2
世界は新型コロナウイルス一色な感じになっている。
新コロちゃんとは長い付き合いになるかもしれない。家の外にあるものなにもかもを危険とするのではなく、何をすると危険なのかを整理して、持続可能なライフスタイルにしていくのがいい。数が足りていないマスクも、なぜマスクに効果があるのかを整理して、効率的に使っていきたい。
この数か月の報道を総合して考えると、危険なのは「会話・接触・間接的接触・食事・三密空間」。僕はもともとちょっと潔癖なのもあって、新コロちゃんが話題になってからのここ2カ月くらい、これらをなるべく避けるようにしているが特段大きな不自由はない。これらを避けながら外食に行くことだってできるし、美術館に行くことだって出来る。行けなくなるところも多くあるが、それらは市場原理の一環だと思って諦める。
会話
特に知らない人との会話があらゆる意味でリスクがある。が、発症してない人からこの経路で感染することは少なそう。風邪でゴホゴホ言ってる人との会話を避ける(相手がマスクをしているならリスクは大きく下がる)。さらにリスクを下げるためにマスクをするとベター(効果は気持ち程度だろうが)。接触
ここは日本人なら特に意識しなくてもよさそう。家族やパートナーとの接触はある程度いいのでは。会話もそうだけど、知らない人との接触ほどリスクが高いと考える。風俗とか行くとやばい。間接的接触
ここがおそらく最も危険。なるべく物に触れるのを控える。ちょっと信じられないが、咳を抑えた手でそのままドアノブを触るなんてことは日常茶飯事に行われている。顔を触らない、こまめに手洗いをする。マスクも効果がありそう。特に物体に付着したウイルスは一日~数日程度は存在する可能性があるので、家の中をグリーンゾーンにするために帰宅時にはまず手を洗う。食事
これもやばい。外出時にサンドイッチやおにぎりなど素手で食事するのは避けたい。大皿料理に直箸という食事スタイルは徹底して避けるべき。外食ならば、料理が多数の人にさらされているような屋台形式や、ビュッフェ形式を避ける。飲食店の店員がマスクをしているお店に行きたい。知らない人とや大人数での食事も避ける。三密空間
「密閉」「密集」「密接」の三密空間は基本的には上記の要素での感染が起こる可能性が高いので避ける。これに加えて閉鎖空間でのエアロゾル感染が起こっているのかは不明だが、とにかくやばいのは会話・接触・食事である。だからエアロゾル感染への危機意識を煽るあまりに「よく換気をしましょう」と言い、それが逆に作用して「換気すれば予防出来る」という間違った認識が生まれていそう(宮藤官九郎のケース)。やばいのは会話・接触・食事である。上記に加えて、ゼロリスクは考えず、ある程度は自分が感染することを織り込み済みにする。そして重症化させないことを考える。長時間の強い運動、ストレス、睡眠不足、栄養不足、体を冷やす、といったものは避ける。少しでも風邪の症状があればあらゆる予定をキャンセルして寝ることだけを考える。風邪をこじらせなければ大したことはない。
監獄の誕生
監獄の誕生(監視と処罰)という本がある。人文系の人には有名な本なのだろうけど、20世紀を代表する哲学書のようだ。
- 作者:ミシェル・フーコー
- 発売日: 1977/09/22
- メディア: 単行本
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでパノプティコン型刑務所という新しいスタイルの監獄が生まれ、権力の構造が変化したという話。
簡単に書くと以下のような条件を満たすような構造の刑務所のこと。
- 受刑者は独房に監禁される。
- 少数の監視者で全独房を素早く監視出来る。
- 受刑者側からは監視者の姿が見えない。
これが考案された18世紀当時は、これを満たすようなものを作ろうとするとかなり大がかりなものになっただっただろうが、テクノロジーが発展した現代には監視カメラがあり実装するのは簡単だ。(ただし日本で本当にこの刑務所を実装すると人権侵害になるようだ)
パノプティコンの発想としては、上記の条件を満たす刑務所に受刑者を監禁すると、受刑者はいつ何時監視されているのか分からないので、「監視されているかもしれない」という思い込みによって規範的な行動を取るようになる。極端な話、監視者はいなくてもよくなる。監視者は受刑者の心の中に勝手に存在しているのである。
これだけだと刑務所の中の仕組みなんて知らんがなとも思うけど、刑務所というのは要するに権力(規範)に従わない者を従わせるための装置である。もっと昔は公開処刑など残酷な処罰を見せびらかすことでそれを達成していた。パノプティコンという哲学は、常に監視をされていると思い込ませることにより人を規範に従わすことが出来るというものだ。
このように監視というのは権力と密接に関わっている。そしてこのやり方は絶対的な権力者が不在の民主主義とものすごく相性がいい。なぜならば、監視さえ機能していれば権力者そのものは不要だからである。監視される人の心の中に勝手に権力者が生まれるのである。
21世紀になり監視社会は問題だという声も聞くが、全体としては「超」監視社会に向かっている。もはやだれもが常にビデオカメラを持ち歩いているし、ある程度の都市ならいたるところに監視カメラがあるし、車にもビデオカメラを装着するのが主流だ。そして人々の生活の一部分がインターネット上(SNS)に移行したことにより、監視カメラの映像を共有することは簡単になったし、ライフログを追うことも簡単に出来る。
これは昔の絶対的な権力者が、残酷な処罰を以て人々の行動を制限していた時代と変わらない。むしろ、監視カメラが至る所にあり、誰もが心の中に権力者を飼っている現代社会は、自制という形でより行動を制限された状態といえる。