マジョリティとマイノリティの優先度のようなもの

チケットボード関係の話を色々見ていて今更ながらに気付いたのだけど、僕の中にはマジョリティを優先させるべきという想いとマイノリティを救うべきという想いと両方が存在している。


たとえば、チケットボードであれば楽しみにしてライブに出かけて行って身分証がなくて入れないなんてことがあってはならないと思っている。あるいはキラキラネームであれば、キラキラネームを糾弾して新しいキラキラネームの人達を生み出さないことよりも、今すでに存在しているキラキラネームの人達がキラキラネームであることを気にせず生活出来るすることを優先するべきだと思っている。


つまり、マイノリティを優先するべきだと思っている。一方で、


労働時間問題についていえば、過労死した人の体力に全体が合わせるべきではないと思っている。20代の体力があればほとんどの人は月80時間残業して働いても大丈夫だ。熱中症についても、ほとんどの10代の学生は炎天下で部活やったり、休日返上してスパルタ練習してても大丈夫だ。


つまり、マジョリティを優先している。


このように自分の中には両方の感覚が存在している。それで、この感覚が世間と真逆であるとも感じる。身分証忘れてライブ会場に来た人は自己責任だし、過労死した人に対しては最大限繰り返さないようにしたいと思っている人が多いと思う。


両方の感覚が存在しつつ感覚が世間と僕とで逆転している現象はなんだろうか?


と、ここで終わるつもりだったけれど、書いてる途中で思いついた。

労働時間や部活については、全員に規制をかけることで問題を解決しようとしていて、その場合に中には存在する「もっと働きたい人」や「もっと練習したい人」という個々人の感情を僕は支持しているのだと考えることが可能で、そうするとマイノリティ支持で統一されてクリアになる。

ちゃんちゃん。