不幸の移り変わり / ヤンキーとオタク

近頃は「このご時世に~」みたいな話に乗って退廃的なものが厳しく排除されていく傾向があります。この理由としてSNSの普及により相互監視が強くなったからだという話をよく聞くけど、僕はこの世界がヤンキー帝国からオタク帝国へ移り変わろうとしているのが大きな理由だと思っています。


僕はゼロ年代後半はニコニコ動画とかめちゃめちゃ見てたし少なくとも当時はそこそこなオタクでした。一方で、大学の時にゲーセンでバイトしてた1年間があって、ヤンキーなお客さんとばっかり遊んでた時期がありました。これがけっこう頭のおかしい人たちで、それこそ集団リンチとかもあったりして、僕の人生の中でもなかなか大変な1年間でした。僕は今の仕事がIT系だから職場にはオタクな人たちが多くてよく話したりするんだけど、一方でたまに当時のヤンキーな人達と会ったりすることもあります。そこで感じるのは両者の人生観の圧倒的な違いで、それをここ10年くらいの社会の移り変わりと照らし合わすと、ヤンキー的な人生観からオタク的な人生観へ社会が移り変わっているような実感があります。


オタクというのは「終わらない日常」と言われてたように、変化の少ない日常を指向していると思います。逆に言えば、オタク的な不幸というのはトラブルが発生することです。オリンピックとか日常が崩れるからうぜーし、異性とのコミュニケーションはトラブルだらけで基本的に不幸だ、みたいな。SNS上ではこの種の不幸を引き起こすものが炎上しています。


一方でヤンキー的な不幸もあり、それは「何も起こらないこと」だと思います。機会がないことが不幸なのです。


itonami.com


この記事を読んで今これを書いているわけなのですが、この出来事には2パターンの解釈があります。1つはこの記事で言っているように勢いでキスしてしまって気まずくなったというトラブル、つまりオタク的不幸です。「何もしなければよかった」というやつです。一方で、ヤンキー的にみると「キスした(された)」という機会が発生しているのでこれは不幸ではなくポジティブな現象です。不幸なのは「デートに行ったのに何もなかった」、あるいは「デートさえなかった」という状況なのです。


僕たちはこの2つの相反する不幸に折り合いをつけていかないといけないと思います。片方のオタク的不幸だけを採用しようとしているのが、いわゆる「このご時世~」で語られる最近の社会ですが、けっきょくそれではヤンキーが不幸になるオタク帝国が誕生するだけです。異性関係で言うなら、「男性にぐいぐい来られてつらい」と不幸になる女性がいる一方で、「男性がぐいぐい来てくれない」という理由で不幸になる女性もいるのです。


まあこの記事を目にしていただけるのはオタク的な人が多いと思うのですが、ヤンキー的な人達への想像力を働かせて、共存することを考えていくべきではないでしょうか。お互いに。


それは単に仲良くしようよということではなく、この2つの不幸は両方とも一人の人間の中に内在しているので、今のように比較的強い方だけがSNSによって強調されピックアップされてしまうと、全員が不幸になると思います。