非モテの不幸

僕はずいぶん長いこと非モテとして過ごしてきた。まあもともと引きこもり体質だったのだけど、特に社会人になって知り合い誰もいない土地で暮らすようになったのとニコニコ動画が流行した時期が一致したのもあって、とにかく仕事をするか家にいるかコンビニいくかニコニコ動画をみるか、みたいな感じでおうち大好きな引きこもりまっしぐらだった。


非モテは一般的に不幸だと言われている。まあどう考えても不幸なような感じはするが、だからといって「はいそうですね」と言うわけにもいかない。だから特にここ5年くらいは、非モテを不幸として扱う社会規範を変えようという言説がかなりの力を持った。僕たちはモテないから不幸なのではなくて、モテること(結婚すること)が幸福だという規範的価値観があるから不幸なのだということだ。


思い返してみると「リア充爆発しろ」という言葉は10年前はある種の自虐的なネタとして消費されていたと思うが、今ではあらゆるハラスメントの文脈に広がってかなりガチ感が出てきている。「まだ結婚しないの?紹介しようか?」という親戚のおばちゃんはハラスメントだ、みたいなことが真面目に語られるようになってきた。たしかに、規範があるから不幸であるならば規範をハラスメントと呼んでぶっつぶすのは正しい戦略だ。


しかし最近の僕はもう1つの可能性を考えるようになった。人が不幸なのは規範とか関係なく単に孤独だからだという可能性だ。僕たちはいくら理性で自分の中にある自然をコントロール可能なようにみせかけてみても、あらかじめプログラムされた本能からはやっぱり逃れられないのではないか。


僕もニコ動時代からずいぶんと色々な理論武装をして引きこもりを続けてきた。多様な生き方を認めることが社会の幸福につながるはずだと。しかし実際そんな感じで10年引きこもってみて、どうもそんなことはないんじゃないかと思うようになった。結局、規範があろうがなかろうが不幸な感覚というは不幸な感覚のまま残り続ける。結婚しろハラスメントをしてくる他人は、いずれにしろ僕の人生にはほとんど関係がないのだ。だからうざいおばちゃんがいなくなったところで現実は何も変わらない。


非モテへのハラスメントの話はLGBTQの運動のロジックを間借りして、ずいぶんそれっぽい話に仕立てあがられてきたが、このロジックが僕たちを不幸から救うことはない。と今では思う。


もちろんハラスメントによる不幸はある。「結婚した方がいい」という話に対して様々な特種な個人的事情で傷つく人はいるだろう。しかしもう一方で、「結婚した方がいい」という話は多くの人の孤独の解消に直接繋がっている話でもある。同じ言葉が誰かを傷つけ誰かを救うというのはなかなか複雑で混乱する話であるが、現実はそういう複雑さを持っていることを考えなければならないだろう。


多様な生き方を認めようという話と「結婚した方がいい」という話。この2つを同時に考える必要があると今は思う。Yes/Noで判断するだけではこの世界を処理できず、不幸の坩堝へ向かっていくだけなのだ。