耳で聴かない音楽会

落合陽一さんが耳で聴かない音楽会というのをやってるみたい。これに非常に感動したのでちょっと書く。

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これは聴覚障害の方たちでも楽しめる音楽会ということなのだが、要するに落合さんは「音楽会を楽しむのに音が聞こえる必要はない」と言っているのだ。そしてこの仕掛けは言われてみれば実に簡単で、音の強弱や周波数特性の変化を聴覚以外の知覚に対して演出するというものだ。


現代哲学(構造主義相対主義)でこの半世紀くらい語られているのが、この世の中にある物事は他の物事との「差」で認識されているという考え方。この考え方は論理的には非常に正しいように思えるし支持者も多いのだが、一方で実社会活動をおくっていくうえでこれを参考にしようとしても、次々に湧いてくる差分がぐるぐると回り始めて、あーいえばこういうの屁理屈ばっかり言ってるみたいに聞こえてしまう。


そんな問題のある考え方だが、しかしとりあえず人はあらゆる物事を他の物事との「差」として認識しているという立場に立ってみる。


そのうえで、落合さんの「耳で聴かない音楽会」を考えてみると非常に面白い。僕たちが「差」として物事を認識しているということは、音楽も音波の時間的な「差」として認識しているということだ。だから音楽を聴くうえで大切なのは「差」なのであり、同等の「差」さえあればそれが音である必要はないのだ。だから視覚や触覚に対して同じ「差」を演出できればいい。


これが「耳で聴かない音楽会」のロジックなんだと思う。これは発想が柔軟だ。


20世紀の哲学は物事の絶対的な価値や意味を否定して全ては「差」であるとした。これはもともと弱者に優しい哲学だったのだ。たとえば白人と黒人の人類学的な構造には違いがなく、そのため優劣もなく、そこには差しかないんだと。だから文脈的にもバリアフリーと親和性が高い。


ただ、この考え方は社会生活に適用しようとするといかにも屁理屈っぽく聞こえるからか、社会に実装されないまま(?)近年勢いがなくなってしまった。


なのだが、落合さんは「こうやればいいんでしょ」とばかりに、テクノロジーを使って相対主義の実装をやってのけた。僕からは「耳で聴かない音楽会」がそんな風に見えた。


もちろん音波の周波数特性は倍音成分とか含まれててとっても複雑だからその「差」を演出するデバイスはまだまだ改善出来るだろうと思うけど、とても楽しみなプロジェクトだね。


そんな雑記でした。