ゼロ年代
ゼロ年代にはとにかく楽しかった思い出しかないのだけど、いろいろともやもやしている部分もある。
昨日、こんなニコ生放送を観た。
イベント終わりました。とにかくイベントとして成立させねば、とがんばりましたが、梅ラボやさやわかさんの乱入もあり、結果としてゼロ年代感のあるイベントになったのではないかと、、
— 黒瀬陽平 (@kaichoo) March 25, 2019
うーんそういえばゼロ年代とはこういうものだっただろうか。
僕のもやもやの原因はおそらくゼロ年代が少しばかり楽しすぎたということだ。僕以外にも、あの頃はよかったという書き込みをよく見かける。なぜそんなに楽しかったのか。
上記のニコ生を観てゼロ年代の狂騒そのものが否定神学的マルチチュードだったのではないかという可能性を考え始めている。
振り返ってみれば、旧体制的な日本社会全体を特異点においた大きな対立構造があの時にはたしかにあって、皆がその対立に乗っていたような気がする。そう考えるとあの無条件な楽しさや、その後の消失にも納得がいく。
けっきょくのところあの時代の僕たちはネトウヨ的な排外行為の享楽を得ていただけなのだろうか。それはもっと考えてみる必要がありそうだが、少なくとも2011年以降、インターネットがさらに普及してネットvs日本社会の対立構造が希薄化していくとともにゼロ年代の熱は失われていった。
僕はあの時代の「そらの的朝ニュース」がすごく好きだった。あれには不思議な楽しさがあった。ふたたびあの不思議な楽しさを立ち上げることが出来るのか。それともあれは否定神学的マルチチュードという場の中のちょっとしたエネルギーの揺らぎのようなものだったのだろうか。
とにかく僕はもう一度「そらの的朝ニュース」が観たいのだった。そしてそれは「ゼロ年代をもう一度」というところとは別のところから出てくるのだろうと思う。だからゼロ年代的なものから少し距離を置こうと思った。自分の立ち位置を少しずつずらしていく。それがゼロ年代でもっとも大切なことだったはずだ。