東浩紀5.0と、脱構築の実践者としての「はあちゅう」

東浩紀さんが5.0にメジャーバージョンアップしたようだ。ポストモダン的な子供の哲学から脱却して、大人を脱構築する哲学を重点的にやるということだ。脱構築というのは「言葉の定義をずらす」みたいなことだ。



僕も最近はこの問題意識は大きい。東浩紀さんが批判している「子供の哲学」というのは、簡単に言えば「俺は俺なんだからほっといてくれ」という主張に論理的な正しさを与える哲学だ。この主張はダイバーシティの文脈と結びついて今ではかなりの影響力を持っている。


しかし実際のところ「ほっといてくれ」とはいかないのだ。僕たちは物質と反物質のように、男女1/2で出生する確率の場の中に生まれてきている。だから基本的には男性1人と女性1人とはセットで生まれるようになっている。その場の中で男性が孤独になるということは女性が孤独になるということとダイレクトに繋がっていて、つまりこの社会に生まれた時点で周囲と無関係ではいられない。


といっても無理して結婚しろっていうのもなかなかつらいし、僕としては開き直るのではなくて独身は独身の負い目をもって生きていこうくらいの感じがいいんじゃないかと思っていた。負い目をもてというのは、要するに大人との繋がりをもてということだ。開き直ってしまうといつか本物の孤独にやられてしまうと思うから。


東浩紀5.0というのは大人を脱構築して家族を脱構築して、大人の共同体をもっとゆるいものに定義し直そうということだと思う。一時的な興味関心だけで集まったり解散したりするサークル活動的共同体ではなく、時間的継続性をもった、しかし今よりももっとゆるく参加出来る大人の共同体が必要だと。僕はこれにはとても賛成するのだ。


ただ、僕は「家族の哲学」と「独身の哲学」は共生する必要があると思う。


大人や子供にしてもそうで、その両方は必ず同時に存在する。大人の脱構築には同時に子供の脱構築もセットになっている必要があると思う。東さんが「子供の哲学では大人を脱構築出来ない」と言っているのは、逆に「大人の哲学では子供を脱構築できない」ということでもあるわけで、両方必要なんじゃないかなと思う。東さんは大人を「普通の人達」と言ってるけど、今の時代はたぶん僕も含めて子供がたくさんいるから、そっちはそっちでなんとかしないといけない。


あと脈絡なく「はあちゅう」なのだが、彼女は大人の脱構築をけっこう実践しているのではと思うのだ。姓を変えたくないから事実婚。夫の職業によるネガティブな世間体にも抗う。全て正しいことをしてるとは思わないけど、一般的な大人の定義をずらそうとしている実践者であることだけは疑いようがない。


とかいいながらも話は単純で、はあちゅうのことけっこう好きだからはあちゅうと話てみてほしいなと思うのだった。まあもちろん東さんがあの界隈について批判的なのは知っているので難しいかな。