読解力と多様性

一般的に非寛容は相手視点からの想像力の不足が原因の1つであるといわれている。


ところで想像力とはなんだろう。相手の気持ちを想像するということ。思い返してみると、これは学生時代に国語のテストに出てきた「Aくんが~という行動をしました。なぜAくんはこの行動をしたのでしょうか。」というテキストの読解問題そのものである。つまり想像力というのは読解力のことだと言える。


国語の読解力テストにも答えが1つしかないという問題がある。Aくんの行動理由には本当は複数の可能性があり、答えは確率の高低でしかない。ただそれも一周まわれば「テキストと問題を読み、複数の回答の可能性の候補を見出し、出題者の意図を想像する」というなかなか深い問題だとみなすこともできるが、それにしても最終的な答えが1つしかないというのが読解力の教育という意味では致命的な欠陥だと思う。


そもそもこんな記事を書こうと思ったのは以下のツイートを見かけたからだ。


はっきり言ってこのグラフを見て単純な高齢者批判に向かうのは読解力不足だろう。このグラフは年齢別の能力差を表しているものだが、見方を変えれば、左側が時系列的に新しい教育レベルの成長曲線だと見ることが出来る。この視点を採用すれば、下の世代に対してこれだけの教育環境を整えた高齢者世代には尊敬の念しか出てこない。
(細かいこと言えば、このグラフは相対値なのでそもそも高齢者の能力の絶対値は分からないし、グラフの値域も85~105なので見かけほど驚くような他国との差はない)


この種の読解力不足は今の社会に蔓延している。これは理系的な問題、あるいは文系教育の失敗といえるだろう。文系領域(再現性のない複雑な事象)を扱うには多視点からの解釈(=想像力=読解力)が必要であり、歴史上まったく同じ出来事が繰り返されない程度には人の社会は十分に複雑だ。



そういう経緯で僕は多様性を生むには読解力が重要なのではと考えている。そして東浩紀や落合陽一なども言っているが、読解力を教育するには現代アートがいいのだろうと思う。現代アートは現代の理系的な価値観が正しいとされる社会では「意味不明」だと批判されがちだ。しかしそうではなく「意味不明」「抽象的」であることが実は重要なのだ。


現代アートは読解力のゲームだといえる。「空間の真ん中に便器が1つ置かれているだけ」という作品を観て、作品だけでなく時代背景や作者のパーソナリティなども含めて、作品を読解するゲームなのだ。作者から答えは提示されず、鑑賞者の読解によって様々な解釈が生み出され、解釈の正誤は判定されず、それらの解釈そのものがアートの一部として二次的に消費される。


おそらく現代アート批判を生み出す構造と、現代社会で起こる様々な非寛容な炎上の原因とは直結している。それは多様な解釈の必要性に対する認識の欠如だ。だから、現代アートをなんとか一般的な教育に組み込んで、読解力を教育するのが、多様性を持った社会のためには良いのではないだろうか。


ということで僕もアートをちょっと勉強しようと思います・・・