今から振り返る『涼宮ハルヒの憂鬱』とゼロ年代

ふと思い立って涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみた。ニコ動でみたけど、今ではきっと色々なサービスで安価に観れるのだろう。ニコ動で観るにはDアニメストアの月額契約が必要だ。


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久し振りに観るとこれがなかなか心を打つ作品で、とにかく今は涼宮ハルヒのことしか考えられなくなっている。だいたい、これが10年以上前の作品だとはとても思えないほどアニメーションのクオリティが高い。ライブアライブは今観てもかっこいい。


今までどちらかというと「らき☆すた」を評価してきた。「らき☆すたは神」とことあるごとに言っているというやばい奴として存在してきたのだ。僕はニコニコ動画コミケのような二次創作/CGMな文化、その根底にあるポストモダン思想、そういったものが好きだった。だから、自らもそのサイクルの一部になりながらその文化を描いている「らき☆すた」は本当に神だとしか言いようがないのである。


それで、僕にとっての涼宮ハルヒの憂鬱とは、らき☆すたの背後にあるものだった。らき☆すたはあらゆる場面で涼宮ハルヒの憂鬱を参照している。涼宮ハルヒらき☆すたが引用したことで、ポストモダン的なサイクルが起動して、あの巨大なムーブメントが生まれたのではないかと考えていたわけだ。


しかし涼宮ハルヒの憂鬱を久しぶりに観て、その考え方は少し変わった。涼宮ハルヒの憂鬱、というか涼宮ハルヒというキャラクター自体がとても人の心を動かす。


↓は僕がとても好きな動画だ。ハレ晴レユカイを踊って警察に追い回されている。

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当時のオタク達の間に流れていたこの種の脱規範精神。僕はそれがすごく好きだったんだけど、当時の僕はこれは自然なものだと思っていた。オタクが自然に振舞うとこのようなことになると思っていた。


しかし、2019年から振り返るとどうもそうではなった。オタク達はとても規範的な振る舞いをするようになった。たとえば、ハロウィンの渋谷に大勢集まって祭りのようなことをするのは馬鹿だ、みたいなことを言っている。右に童貞と言う者があれば炎上させ、左に不倫する者があれば炎上させ。風紀を守る自警団のようだ。


そうすると、ゼロ年代の脱規範精神はなんだったのか。それはおそらく、みんなで涼宮ハルヒの真似をしていたのだろうと考えることが出来る。警察に追い掛け回されないまでも、歌ってみたとか踊ってみたとか、普通に考えたら恥ずかしくてやれないようなことを当時バンバンやり始めた、あの勢い全体が、涼宮ハルヒというキャラクターに支えられていたのかもしれない。


涼宮ハルヒというキャラクターの行動形態、強烈な主体性は、オタクからはむしろ嫌われるタイプのものだろう。そんなハルヒがオタク達と間違って接続したことで起きた化学反応が、ゼロ年代の狂騒だったと考える。


今は涼宮ハルヒが消失して、規範的な長門有希がいる時代と見ることは出来そうだ。


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