釣った魚を食べるということ

幸せに生きるためにはという話は色々あるし、幸福実現党なんていうのもあったりしてうさん臭さしかなくなってきている昨今ですが、まあそれでも幸せについて考えなければ何をしているのか分からないので、幸せに生きていくということについて少し書く。


ところで、僕は最近釣り系ユーチューバーをよく見ている。特に、釣った魚を持って帰って料理して食べるところまでやってるのが面白い。


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この手の動画をアップしている人達はたくさんいる。そしてだいたい、釣った魚を食べている時はみんな幸せそうなのだ。やっていることは、お刺身を食べているだけなのにもかかわらず。


なぜお刺身を食べるだけでこんなに幸せそうなのかというと、それが何時間か前までまったく確定していなかった偶然の出来事だからだろうと思う。まあもちろん釣りに行っているのだから、お刺身を食べることは半分は必然の出来事といえる。しかし釣りにいけば当然釣れないこともあるし、何のお魚が釣れるかはいよいよわからないので、もう半分は偶然といえる。その偶然を楽しむ。


僕はここに、幸せの本質のようなものを見つける。偶然と幸せとは深く結びついている。偶然を愛することで、幸せに生きていくことが出来るのではないか。


ところが現代社会では、偶然はむしろ敵として扱われている。電車は時間通り来なければならないし、お金の収支は予定通りいかなければならないし、結婚相手の属性情報は確定していなければならない。外食も、何が出てくるか分からない小さな食堂よりもメニューが決まっているチェーン店の方が安心だ。


たとえば、現代社会では以下のような話題には事欠かない。結婚は予定通りでなければならない。

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あるいは、ファイナンシャルプランといって、何十年先までの人生の予定を立てることに躍起になっている。


このように偶然性や不測の事態を忌諱する傾向は、今はどんどん強くなっている。日本人の幸福度が低い問題というのはここ10年ばかり話題で、労働時間とか様々な原因が取りざたされているが、根本的には偶然の出来事に対する態度の問題が大きいのではないかと思う。


「釣った魚を食べる」というのは偶然を愛することの象徴だ。たまたま釣れた魚を美味しく食べる。むしろ、たまたま釣れた魚だからこそ美味しい。それは釣りに限らず、あらゆる出来事に対していえる話なのではないだろうか。


もちろんすべて偶然に身を任せようということではないが、半分は必然を求め、もう半分は偶然に対して開かれているスタンスくらいがちょうどいいだろう。