連帯の強さと、弱い連帯のオルタナティブ

こちらの記事、最近僕も同じことを考えてた。

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SNS上でオタクコミュニティが作られて、アニメオタクになるのとオタクコミュニティに入るのとがイコールになりつつある昨今。かつてコミュニティに馴染めない痛い人の受け皿となっていたオタクは、もはやその役割を果たしていないように思われる。そうすると、痛い人はどこに向かうのか。


思い出すのは、はるか昔、人知れずアニメ雑誌を買って隠れるように読んでいたこと。もちろんそれは物理的には孤独な行為なのだが、アニメ雑誌の向こう側にいる別の読者たちの存在や、あるいは林原めぐみのラジオの向こう側にいる別のリスナーたちの存在、そんな全く知らない誰かを想像すると孤独な感じはしなかった。


昔のオタクの間には、コミュニケーションが介在しない、全く知らない誰かとの弱い連帯が存在していたように思う。



ところで、連帯の強弱について考えると以下の3つの階層があるように思われる。


1番目、この社会で最も強い連帯は、ナショナリズムや宗教や家族だろう。このためなら人は戦争だってする、形而上世界に支えられたとても強い連帯だ。友敵理論でいうなら、この強い連帯があるから人は人でいられる。


2番目が、会社組織やファンコミュニティのような、いわゆるコミュニティというやつで、直接的なコミュニケーションが介在する連帯だ。SNSの時代ではここがボリュームゾーンで、オンラインサロンなどの流れを見ていても、2020年代もコミュニティ文化がさらに隆盛していくだろう。


そして最も弱い3番目だが、これもまたナショナリズムや宗教や家族だ。これらの連帯は強すぎるので、その副産物として弱い連帯が生まれる。つまり、何もしていなくてもなんとなく国家の一員であるという意識があり、何もしていなくてもなんとなく家族の一員であるという意識があり、他の人もなんとなく同様に感じているだろうという心理的安全がある、弱い連帯だ。



かつて、オタク文化含めサブカルチャーは、このうちの3番目の弱い連帯のオルタナティブを形成していたと思う。作品を通して、どこの誰とも分からない全く知らない誰かとなんとなく連帯した気になる。しかしそれらはSNSの登場によって1つレベルがあがって、2段階目のコミュニティ、コミュニケーションが介在する連帯になった。


オタクに限らず、様々な活動がSNS上でのコミュニケーションに集約されていく現代社会では、3番目の弱い連帯がかなり手薄になっている。


この記事の話題としては痛い人の行先を考えるということだったが、3番目の弱い連帯を必要としているのは何も痛い人だけではなく、多くの普通の人たちが心理的安全を手に入れるために弱い連帯が必要なのだと思う。2番目の強さの連帯たるコミュニティは、コミュニティに参加し続ける努力が必要なので、どこかで疲れて行き詰るのではないかと思うのだ。


もちろん弱い連帯としてのナショナリズムや家族は依然として存在するが、それは最も強い連帯と裏表なので、なにかのきっかけで火が付くと簡単に暴走する。弱い連帯を求めて最も強いナショナリズムが盛り上がるのでは、やはり少し困ってしまう。


ナショナリズムや家族による弱い連帯のオルタナティブをどう再構築していくか、それを考えないといけないのだろうと思う。