コミュニティの時代

こんな増田がいた。

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ある作品及び同人界隈のファンだったが、その界隈のノリにうんざりして、作品そのものも見るのも嫌になったという話。


以前もそれらしいことを書いたけれど、SNSがあるので今はおそらく何をやってもコミュニティがついてまわる。趣味について書きこんでいると、同じ趣味の人からフォローされて、フォローしかえして、とやってるといつの間にかファンコミュニティと繋がる。それはもちろん良い面もあるけれど、悪い面にも目を向けないといけないのではないかと近頃は考えている。


従来は、作品とコミュニティとはある程度の距離があった。というよりも、SNSの無い時代にはファンコミュニティといっても直接関わるのはせいぜい十人程度の規模で、今のようなコミュニティはなく、その作品のファンの人達という非常にぼんやりとした連帯があった。


今はその頃と比べて作品とコミュニティとの距離が近い。SNSでは多くのファンの人達とコミュニケーション可能だし、なんならアーティスト本人すらもSNSにいてコミュニティの一部になっていることも多い。作品とコミュニティとの距離が近いため、先の増田なんかもそうだけど、「ファンコミュニティに馴染めない=作品も楽しめない」という図式が出来上がりつつある。


そんなの一人で勝手に楽しめばいいじゃんという意見はあるだろうけど、SNSがある状態で”あえて”一人で楽しむというのはなかなか難しい。だってアーティスト本人だってそこにいるのだから、作品のファンならそこに行かないわけにはいかないだろう。


そもそもサブカル、特にオタク趣味なんかは、学校などのコミュニティに馴染めない人たちにその外側の世界観を与えていた。違う言い方をすれば、避難所のように機能していた。それが、そこにもコミュニティが強制されるようになると、避難所がなくなってしまうのではないか。


というのがまあ、今の問題意識。


なんで僕がこんなことを考え始めたのかというと、夏に「京アニ事件」があって、あの事件にはこの避難所の不在が関係してるのではないかと思っているからだ。容疑者は京アニに小説の投稿までしているので、かつてけっこうガチな京アニファンだったのだと思う。それが色々あって強烈な殺意に転換されていった。その間に何があったのかは、これから取り調べで明らかになってほしいと思う。