理系の人のものの考え方

理系が得意な人のものの考え方というのは、みんなが理科で習った「Aさんが時速5kmで2時間歩きました。進んだ距離は何Kmでしょう?」という問題に集約されている。


これの答えは10kmなのだけれど、冷静に考えれば本当にそんなことあるのだろうか。Aさんが時速5kmで歩けるとして、2時間歩いて丁度10㎞進むなんてことは、現実には起こらないだろう。


この設問自体が非常に理系的であるのは、Aさんが歩くという事象に対して再現性を見出してるところである。理系の人の世界観ではAさんが2時間あるけば、いつだって10km進むのである。この再現性を僕たちは科学的なエビデンスと言って、特に最近はこれこそが最も大切だという向きが強い。


では現実で考えると、Aさんが2時間後にどれくらいの距離歩いているかという問題は、考慮が必要なパラメータが多すぎて答えを導くのは不可能である。地球の裏側の蝶の羽ばたきが起こした嵐がAさんの行方を妨げるかもしれないし、ちょうどその日は深刻な寝不足で途中で千鳥足になってしまうかもしれない。Aさんが歩くという現象はあまりにも複雑すぎて(事実上)再現性がないのだ。


理系の人のものの考え方は「再現性の無い事象から再現性を抽出する」というのが基本にある。複雑な事象の中から再現可能なシンプルな特徴量だけを抜き出して一般化するのである。


たしかのこの考え方によって人類の技術は飛躍的に向上して僕たちの生活を豊かにしてくれている。それはそれとして、もう一方ではそれは複雑さ、現実に存在する多くのパラメータを切り捨てていることなのだということを忘れてはいけないだろう。科学が切り捨てたそれらの複雑さは、案外重要なものである。


ちかごろ「子供が数学で赤点取ってどうしよう」みたいな話を聞くことがあってそんなことを考えた。僕としては文系理系というのは上記のように複雑さと再現性にまつわる世界観の違いのことなので、数学が出来ないというのはある面ではとても良い事なのだと思う。それは世界をありのままに捉えてるということなのだ。Aさんが2時間後にどこにいるのかなんてことはよく分からないままでいい。なぜならAさんが2時間後に10km進んだという答えは、確実に間違っているからである。