なんとなく相手の気分が分かるということ

特にアメリカの混乱を見ていると、けっこう本格的に民主主義的なものがまずいことになってるんじゃないかと思う。SNSが普及してまだたったの10年。それまで物理的な距離が守ってくれていたものが崩れているように感じる。


以下の記事で、トッドが民主主義の危機の原因としてエリーティズムを批判している。全く同意見である。エリートよりも大衆の方が正しいというのが民主主義の基本だからだ。

dot.asahi.com


もちろんエリーティズムそのものは最も重要な問題ではない。問題は、SNSによる物理的な距離の消失により、エリーティズムのようなものから大衆が守られなくなったことだ。今は「~が正しい」「~が間違っている」というような安易な言説が大衆を支配している。これでは民主主義が本来持っていた(分散コンピューティングにも似た)堅牢さは失われてしまう。


SNSのような仕組みが今後なくなることがないとすると、どうやってエリーティズム(そして対として発生するアンチエリーティズム)のようなものから自分を守っていくかは重要だ。その答えは政治的な活動ではないだろう。


僕は今は、結局のところ「相手の気持ちを考える」ことしかないのだろうと思っている。


コロナへの対応を見ても「コロナ絶対撲滅すべき」な人もいれば「それよりも日常が重要じゃわい」という人もいる。SNSとかをやっているとこのどちらかに吸い込まれていく。もちろん自分なりに考えをまとめることは大切だし、その結果としてこのうちどちらかにたどり着くならそれは良い事かもしれない。


だけど、こっち側じゃなく反対側に行った人達の気分も本当は分かるはずなのだ。反対側に行った人たちは自分と全く違う人達ではない。むしろ日本では、同じ国に生まれて同じような教育をうけて多くのコンテクストを共有出来ているのでほとんど違いがないとも言える。だから、ほんの少しでも分かろうという意思と、自分がこっち側に来る前はどうだったかをちょっと振り返れば、反対側に行った人達の気分は想像できるのだ。


エリーティズムに襲われると、反対側の人達がどうしようもなく愚かに思える(トランプ支持者や、人種差別的な老人や、西野オンラインサロンメンバー、そしてそれらから見た反対側もまたそうだ)。


その時に、反対側の人達の気分を少しでも想像することが出来れば、その破滅的な構造から逃れることが出来る。それ以外にはないのかもしない。