心理的安全性の混乱についての所感

心理的安全性という概念が混乱し続けているという記事をみた。

q.livesense.co.jp


超ざっくり書くと以下のような内容だ。

  1. 心理的安全性のある職場 = 怒られない職場」というのは誤解である
  2. 心理的安全性のある職場 = 対人リスクを取れる職場」が正しい

現在は1の誤解がとても蔓延している状況であり、2の正しい理解を獲得しようという話だ。


この混乱は、日本社会で心理的安全性を実現しようとする場合の限界を示しているのかもしれない。心理的安全性の実現が根本的に困難であるため、「怒られない」という安易な方法で進めるしかなかったのではないだろうか。


なぜ日本で「対人リスクを取れる職場」の実現が難しいのかというと、別の文脈でよく語られている「共同体の崩壊」があるからだ。共同体が崩壊した状態とは、生活から地域コミュニティや血縁コミュニティなどが失われ、所属しているコミュニティが会社しかないという状態である。日本のサラリーマンが退職後に人と会う機会が極端に少なくなってしまう問題というのはよく目にする。共同体が崩壊している世界では、職場は仕事以上に人とのつながりを重視する場所だ。


共同体が崩壊した状態では、職場の心理的安全性はどうしても損なわれる。対人リスクを取れる職場環境を作るためには、対人関係とビジネスとを適度に分離したものと割り切る必要がある。しかし、職場外に相談できる人達や愚痴を聞いてくれる人達、つまりどうしても困ったら助けてくれる人達がいない状態では、職場での対人関係をビジネスだと割り切ることは難しい。職場とは他者と交流するための貴重なコミュニティの場であり、ここでの対人トラブルの影響は単に仕事に支障が出るだけでは済まない。


この問題では日本ではすでに顕著だが、最近では欧米でも教会コミュニティが急速に失われており同様の事態に陥る可能性があり、日本はすでに先を進んでいるとも言える。したがって、欧米で言われてるものとは少し違う仕方でアプローチをする必要がある。それは職場だけでなく生活環境全体を考慮するということだ。どのような生活環境が整っていれば、心理的安全性の高い職場を実現できるのか。この問題について考える必要がある。

脱占いの世界とポリコレ

占いというものがある。これは非常に歴史の深い人の営みで多くの人生を導いてきた。しかし科学技術が成熟した現代社会では、「占い」というものはすこぶる評判が悪い。今の世界から見ると、占いというのは科学的根拠のない適当なことを言って人々を惑わすものにしか見れないからだ。占いなんてものを信じるなんて、というのが現代社会では一般的な見方である。


ところで最近では、そんな評判の悪い占いというものを再評価する論理もある。曰く、「人がよく考えて行動を選択すると固定観念の沼にハマるから、占いのような適当な行動指針が適度に外部から提供されていた方が、柔軟に考えて行動することができる」というものだ。これはかなり的を得ている話で、人の思考能力の限界を指摘している。人はよく考えたからと言って常に正しい結論に到達するわけではなく、むしろ逆に、考えれば考えるほど固定観念の中で間違い続けてしまうということがある。占いはこのような沼から人を救い出してくれることがある。


ここまでは個人と占いとの関わりに関しての話だったが、これは社会全体にも通用する話だと思う。


ニーチェが「神の死」と言ってから100年が経ち、現代社会はますます宗教や占いといった適当なことを言うものから距離をとり、論理によって考えようとなってきている。そしてかつて宗教が担ってきた道徳の基盤を、もっとちゃんと考えて再構築しようとなっている。そのような新しい道徳が、今の社会で活発に議論されているポリコレといったものである。


最初に述べた占いの話は社会全体に対しても適用できる。「人がよく考えて行動すると固定観念の沼にハマる」というものだ。僕の視点では、現代社会はこの問題に片足を入れ始めているように見える。かといって宗教や占いはもう使えない。だとすると別の「適当さ」を考える必要があるのだと思う。固定観念の沼から抜け出すには、外部から適度なランダム性が提供されていることが大切だ。

エニグマを作る

エニグマ作った。

エニグマとは

エニグマは第二次大戦時にナチスドイツ軍が使用していた当時最強に堅牢と言われていた暗号化ツール。これはドイツ軍が作ったものではなくて民間企業の商品だったようだ。ただ、エニグマの暗号化端末があまりにも高価すぎて全く売れなかったらしいのだけれど、ちょうど強い暗号化ツールを探していたドイツ軍の目にとまって採用されたらしい。


結局は、誰でも(敵国でも)手に入れることが可能な商品だったことと、暗号化パターンが現代から考えるとそこまで膨大ではないというのが致命傷だったようだ。とはいえ人手で解読するのは到底不可能だが、チューリングがボムという解読機械を開発したことにより、イギリスに解読されてしまう。これによりドイツの敗戦が数年早まったらしい。


余談としては、イギリスはエニグマの解読に成功したことを公表しなかった。その上で、高性能な暗号化システムだと言ってエニグマを世界中に売りまくった。これにより、イギリスだけが解読可能な暗号が色々な国で使われるという状況を作ったらしい。ほんと、20世紀前半のイギリスは狡猾だ。

エニグマの仕組み

エニグマを使うと例えば「test」という文字列が「gdse」というように別の文字列に置換される。一文字ずつ別の文字に変換しているだけ。


エニグマの仕組みは本当にシンプルだ。簡素化したフローは以下。


キーボード -> 変換ローラー(任意の個数)-> リフレクター -> 変換ローラー(逆順)-> ディスプレイ


実際に文字の置換を行うのは変換ローラーだ。変換ローラーの役割も非常にシンプルで、単純にアルファベット文字を別のアルファベット文字に置換するだけである。エニグマではこの変換ローラーを複数繋げることで、置換パターンに多様性を持たせている。


このような変換表に基づいて一対一で文字を置換する形の暗号文は、同一文字が常に同じ文字に置換され、文字の出現頻度などから解読されてしまうリスクがある。そこでエニグマでは、同一文字が同じ文字に置換されないように、1文字打つごとに変換ローラーが決まった量だけ回転して、別の置換表が適用されるようになっている。これにより、文字ごとに異なる変換ルールを適用することが可能になる。またローラーの回転の仕方は全端末で統一化されているので、ローラーの並び順と初期位置さえ共有されていれば同じルールで暗号化を行うことが出来る。


エニグマの便利なところは複合化が簡単というところ。複合化を行う場合は、暗号化時と同じローラー順で同一初期位置に設定されたエニグマに対して、暗号文を入力して暗号化を行うと複合化された文章が出力される。とても簡単。これは暗号化の際にリフレクターを間に挟んで変換ローラーを逆順にも流すことで実現している。まあ、複合化が簡単というのが暗号システムにとって良いのか悪いのかというのはあるが。


エニグマを実装した

上記でエニグマの仕組みを説明したが、当時はこれを全て機械仕掛けで実現していた。変換ローラーは本当にローラーで、キーボードで1文字入力するとローラーがグイーンと決まった分だけ回転するらしい。これが非常に精密な機械になるので、一台あたり数百万円したらしい。そりゃ売れない。


ところが今の我々にはまさにチューリングマシンたるコンピューターがあるので、コンピューター上で動作するエニグマが数時間あれば作れてしまう。しかもGithubというなんか作ったものを公開できる風のやつがあるので、無料で配布できる。これが人類100年の成果のようだ。

エニグマ

https://yfujita.github.io/enigma-chan/dist/enigma.html

ソースコード

GitHub - yfujita/enigma-chan

生産性の向上

生産性の向上にはざっくり2つの側面がある。農業や工業など作った分だけ売れる目処がある産業の場合、生産性を向上することで売り上げが増加する。一方で、情報産業やサービス業などは最終的には市民の時間という有限リソースを奪い合う形になるため売上に一定の制限がある。その中で生産性を高めることで人員は削減される。


前者の場合は構成員の幸福度は問題なく向上するが、後者の場合は、削減された人員分まで考慮すると全体の幸福度はむしろ下がっている。つまり、生産性の向上というのは、利益の増加が見込めるか、あるいは人員削減により職を失った人が新しい環境で挑戦できる仕組みとセットになっている必要がある。そうでない場合は全体の幸福度は低下する。

理性社会の中心に存在する非理性

リベラルは、人間社会というものを理性で制御することで諸々の問題が解決可能であると考える。しかしこの社会の中心には有性生殖(性愛)という非理性が存在している。この非理性は絶対的なものであり、これが機能しないと社会を存続することが出来ない。


社会を理性で制御したい現代社会と、しかしどうしても逃れられない非理性との間に生ずる歪みが問題となる。理性社会はあの手この手で非理性の押さえ込みを行う。極端な言説を挙げれば、全て人工子宮を使って性愛なしで子供が作る社会にしようというような話も、技術的なハードルがあるとはいえ真面目に語られることもある。そこまでいかなくとも、「ノーマル」でない性愛に対する締め付けを強化しようというのは、現代の一般的な傾向である。


しかしどんなに制御をしようとしても、人の非理性的な欲望は残り続ける。非理性を認めないというのは抑圧に他ならず、抑圧された心は時にはとんでもない問題を引き起こすし、そもそも継続的な抑圧が技術的に実現可能かも定かではない。


そのため、人間社会を考える際には非理性を内包した理論を作る必要があり、理論を考える際には常に抑圧との関係を考慮する必要があり、非理性について思考停止しないことこそが本当の理性なのだと思う。非理性を単なる厄介な問題として扱っているうちは、ただの思考停止である。

生の苦しみとは「現実」の問題ではなく「理想」の問題

反出生主義の人が目立ってきたというのは、この世界が苦しみに感じている人が増えているということ。苦しみとは理想と現実の剥離から生まれる。ここで一般的に問題視されるのは「現実」の方なのだけど、本当に問題なのは多くの場合「理想」の方なのではないだろうか。


人間は極めて言語的な生き物なので、「理想」とは動物的本能に依るものではなく、どちらかというと後天的な言語活動の末に「それが得られれば満足するもの」として想像したものだと考える。


ここで重要なのが「人の欲望はその構造上決して満足することがない」ということだ。何かを手に入れれば別の何かが欲しくなる。これが決定的に重要な問題で、理想が「それを得られれば満足するもの」である以上、「理想」とは決して叶わない空想なのである。


だから理想と現実のギャップは常に存在する。それでも理想を追い求めると、人は仮想敵を空想する。「親のせいで不幸になった」「安倍がいるから幸せじゃない」「男がいるから女は不幸」といった具合に、絶対に叶わない想像上の理想がどこかに存在することにするために、これまた絶対に手が届かない空想上の敵を作り、敵がいるから理想がないということにする。


この営みのことを否定神学システムと言ったりもされるけど、実際のところ都合の良い敵は現実には存在しないし理想そのものも存在しないから、仮想敵と戦ってる間もずっと現実と理想とのギャップに苦しむことになる


結局のところ生の苦しみから逃れるために出来ることは、理想を少し冷めた目で見て、仮想敵を少し冷めた目で見て、自分の中の理想とは違っているこの今の自分を肯定することしかない。だいたい人生なんてこんなものである。鳥じゃなく人に生まれてしまったばっかりに空を飛ぶことだって出来やしない。

盆踊りを踊りたい

東京音頭の振り付けを覚える日々。いやまあ日々というほどは頑張ってないが、ともあれあんなのを踊れたら粋である。


しかしこう、昔だったら盆踊りなんて誰かに教わらないと絶対出来なかっただろうけど、今はYoutubeとか見ればなんとかなる。今の世の中は一事が万事この調子で、誰かに教わって踊れるようになること自体が大切だった気もするし、踊るハードル低くなって良かったという気もする。


それにしても盆踊りというのは個性が出る。若い子はちゃんと踊る。アラサーくらいで味が出てくる。より大人になるとさらにどんどん個性が強くなる。アラサーの踊っている、全体としてはちゃんとやってる中でちょっとだけ他人と違う風にする。その塩梅。