仮想人生 / はあちゅう

はあちゅうの仮想人生を読んだ。面白かった。

仮想人生

仮想人生


ツイッターの裏垢上で繰り広げられるリアルとは切り離された別の人生(=仮想人生)を複数の登場人物の視点から描いた小説作品。はあちゅう自身が匿名ツイッター裏垢を運用していて経験したネトナンを主な題材にしていて、適当な女性タレントの商材写真を裏垢のプロフにしていたら「SEXさせて」みたいなDMがたくさん届いたらしい。そしてそんなのに実際に会い行ったりしてみたらしいから面白い。


そんなのも含めて、ネット上で色々経験してSNSを使い込んでいるはあちゅうだからこそ書けた作品だと思う。タイトルの「仮想」が示す通り僕なんかから見るとなかなかぶっ飛んだ世界が繰り広げられてるけど、だからといって決して現実離れしていない物語。はあちゅう自身SNSに対しては色々と思うところがあると思うのだけれど、そういった思いを吐き出した一冊ともいえるかもしれない。


はあちゅうの小説はこれ以外にも何冊か読んでいるんだけど、人の感情の複雑さみたいなものをテーマにしているところがあって、僕はけっこう好き。はあちゅうというと専業作家ではなくてインフルエンサー的な活動の方が目立っているのでタレントの書いた小説なのかなみたいな雰囲気がどうしても出てしまうけど、そういう先入観を取っ払って読んでみると面白いかも。

大人たちが失っているものは好奇心ではなくポテチとコーラなのではないか

せっかくAmazon Prime Video会員になっているもののあんまり使ってなかったので、今年は映画たくさんみよって思ったわけです。でも実際のところ得体の知れない映像を2時間みるってなかなかハードルが高いですよね。俺これいけるのか?みたいな。でも思い返してみると昔は家で映画見るの単にめっちゃ楽しみだった気がするんですよね。


この変化はなんでやろと考えてたら思い出したわけです。昔は映画観ようと思ったら、レンタルビデオに借りにいったついでにポテチとコーラを買ってね、飲んだり食べたりしながら観てたわけですよね。もうこれはポテチとコーラを美味しく食べるために映画を見ていたといっても過言ではない。


でも歳をとってくるとポテチとコーラとか食べてる場合じゃないと、そりゃ単に悪いことだとどこかで学ぶわけですよ。たしかにどう考えても体に悪い。でも単に悪いことを排除した結果として、一緒に映画とかを観ることも無くなっていったわけですね。やっぱり僕らの人生ってとんでもない複雑系の中にあるので、単に悪いとか思ってる事が他の何に影響しているのか分からないですよね。


だから何が言いたいかというと、僕はもうポテチとコーラを諦めないということです。みんなダメだダメだというけれど、実は話してみたら良い奴かもしれない。そんなことってよくありますよね。だから色々な事にだんだん興味を失っていく大人たちにとって、ポテチとコーラをもう一度手に取ってみることが大切なのかもしれません。

非モテコミット

僕は10年以上前から藤沢数希さんの金融日記のファンで、途中からなんか恋愛工学とかいう怪しい感じになっていきまして、まあ賛否ある恋愛工学の良し悪しはおいといて、「非モテコミット」はすごい言葉を発明したなと思っているわけです。


ken10blog.com


非モテコミットはやばいです。なぜならば以下の流れで単に失礼なことになりやすいからです。


①一人の女性を好きになる
②その人の事ばかり考え始める
③いろいろ妄想し始める
④いつの間にかその相手の別人格が妄想上に爆誕している
⑤現実の相手と妄想上の相手とのギャップに失望する(=上手くいかないのを相手のせいにする)


この人に決めた!みたいにコミットするとこういうことになると思うんですよね。このうち⑤までいくと論外ですけど、④もけっこう失礼なことをしてると思うんですよね。相手の人格を都合のいいように二次創作しているわけですから。


だから③のところでぐっとこらえる必要があるのですが、ここで踏みとどまるのがなかなか難しいのです。それならば最初から一人の相手に決めるんじゃなくて、複数の女性との可能性を作っていくのが、④に陥らないための楽な方法なんじゃないかなって思います。


最近の僕はなんでもかんでもこれは否定神学だろうかと考えてしまうのですが、相手の子と上手くいく幸せな空想を勝手に作り上げて、だけどその空想が現実のものにならなかった時に、その理由を相手に求めるみたいなことをし始めると、これは否定神学的ですね。フラれて怒り出す人よくいますよね。

Web2.0はニュー速2.0になりました

はてなブックマーク見るのやめることにしました。
もうほぼ10年前のニュー速です(>_<)
Web2.0ニュー速2.0になりました。


問題の原因を単焦点に求める。否定神学です。
空想を追い求めて身内でぐるぐるまわしてるだけだから他者への礼儀も失われる。
10年前はこのやり方でネトウヨが大活躍でしたが、今はこれが全体に蔓延している。
つまりニュー速2.0なのです。


僕は2chとかSNSとかはてブとか、東浩紀さんの言うところの一般意思の可視化みたいなところにすごく希望を持っていた人だったから、だらだらと見続けてしまいましたが、2018年はけっこうキタ感じがしますね。情動感染とかで僕のコルチゾールがやばいので、大衆意思の可視化的なものから離れようと思います。

ネット世論三国志

僕たちは議会制民主主義の世界に暮らしており、直接民主制はさすがにやばいよねということは分かっている。


ところがSNS界隈は東日本大震災あたりを境に強力に影響力を増していて、「いいね数」などで定量的な評価が可能であることもあいまって色々なことを決断し始めている。


広告記事はタイトルにPRといれるべきだ
yoppymodel.hatenablog.com
女性蔑視の広告は使うべきではない
news.nifty.com
学校にエアコンを設置するべきだ
togetter.com


これらはごく一例。もちろんこれらに法的強制力はないのだが、だからといってこの取り決めに従わないと炎上というなかなか強烈な私刑が加えられるため、ある程度の強制力は発生している。もちろんSNS上で決まった方向性が100%正しくてみんなが幸せになるのであるならばそれでいいと思うのだが、直接民主制と同じくポピュリズムの問題は当然はらんでいる。それどころか、SNS上での議論は日本全国民の中でも偏ったクラスタ(=オタク)の人達の声が大きいため、民意を反映するという意味では深刻な問題がある。


SNS上ではアンチオリンピックが常識のようになっているが、NHK世論調査では85%の人がオリンピックに肯定的であるし、ネット上ではそんなもん誰がやんだよと言われてたボランティアもたくさん集まった。

2018年10月東京オリンピックパラリンピックに関する世論調査 - NHK
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20181221_1.pdf
www.fnn.jp


オリンピックの是非はともかくとして、ネット上で常識のように見える意見でもそれはけっきょく一部のクラスタの人達の意見でしかないのであって、このように社会全体の民意とはズレがある。にも関わらず、ネット上での取り決めを炎上という手法でもって強制していくスタイルには明らかに問題がある。



以上が前提の話である。


これに対しての僕の考えは「SNS上で自由な意見の発信はするべきだが、それによって何かを決断するべきではない」である。とはいえ、多数派になってしまうと社会をコントロールしたくなってしまうものである。炎上という現象に反対する場合、社会をコントロールしようとする態度そのものを問題にすることが多いけど、色々見てきてなかなかそれを止めさせるのは難しそうだなと思うようになった。強者が自制するのは難しい。


そこで反炎上で考えられるもう1つの方針として、1つの勢力がネット世論を統一してしまうのを防げればよいという考え方がある。つまり1つの勢力の意見が大きすぎる炎上状態ではなく、異なる意見も存在する喧嘩状態を作り出すという狙いである。この発想は諸葛亮孔明の天下三分の計と同じである。強大すぎる魏の勢力に対抗するため、魏を滅ぼす方法を取るのではなくて、全体を3勢力に分割することによって、魏が呉を攻撃すれば蜀が魏の隙をついて攻め込むという相互監視状態をつくり、魏の動きを封じ込めるのだ。


さて丁度いいことに、東浩紀さんによると日本社会には3つの勢力がある。それは

  • オタク
  • ヤンキー
  • インテリ

である。


今のネット空間はオタク帝国になろうとしている。あらゆるトラブルを回避して「終わらない日常」を求める人たちだ。もちろんそれ自体正しい面もあるけど、しかし全体がそれだけになってしまっては問題がある。当然のことながら「終わらない日常」なんてものはなくそれはいつか崩壊するので、トラブルを起こしてでも日常を少しずつアップデートいく必要もある。そこでトラブルを起こす勢力がヤンキーである。もちろんSNS上にもヤンキーは存在しているが、オタクは社会規範の力を使うのでSNSでのテキストでのやり取りではヤンキーは現状かなり分が悪い。


今ネット上でかなり分が悪いことになってるヤンキーといえばはあちゅうが思い浮かぶ。

togetter.com


はあちゅうの良し悪しはおいといて、ネット上でこれは悪に違いないと決めつけて一方的な誹謗中傷を行っている状況には問題がある。はあちゅうの支持者は一定数いるし、何が正しいのかなんて最終的な結果が出なければ確定しない。だがその段階からSNS上ではオタク達による誹謗中傷が始まってしまい、いまのところはあちゅう側はこれに対して有効な反撃手段を持っていない。


これが今の状況だが、パワーバランスを調整して一方的な炎上ではなく、殴ったら殴り返される喧嘩の状態にしていく必要がある。そこで第3勢力としてバランス調整のカギを握るのがインテリだ。


インテリは言論が仕事なので原理上多数派にコミット出来ないのである。なぜならば多数派は今以上のロジックを必要としていないし、ロジックを与えたところで何も変わらないからだ。オタク系インテリとヤンキー系インテリがいるならば、オタク系インテリは多数派であるオタクに対してのコミットをやめてアカデミックに専念するようになる。一方でヤンキー系インテリには困窮しているヤンキー達に逆転のロジックを与える仕事がある。


このようにインテリという勢力は「アカデミック+多数派に対する逆張り」という方向に動くため、バランスを調整することができる。


逆に言うと、今はSNS上ではインテリがうまく機能していないから炎上が巻き起こっているとみることが出来る。これにはいくつかの理由があると思うが、1つはもともとオタク系インテリがたくさんいたので、オタク帝国になった結果彼らが軒並みいなくなってしまったというのがある。10年前はこの社会はまだヤンキー帝国だったので、オタク系インテリが活躍していたのだ。だからもともとヤンキー系インテリが不足していて、その不在をついて一気にオタク帝国が構築されてしまい反オタク発信をすると即炎上のような状況になってしまったため、SNSを見限ってNewPicksやメルマガとかに引きこもってしまったのだ。


今のこの炎上天国をなんとかするためにはインテリ達をSNSに引き戻し活発に発信してもらう必要がある。いまヤンキー系インテリで一番目立っているのは宇野常弘さんだろう。宇野さんみたいな人がもっとたくさん現れる必要があって、これから徐々に増えていくのではないかと思っている。


いまのような一方的なリンチではなく、殴り合いの喧嘩の絶えないSNSを待ち望んでいる。そのためにインテリのみなさんにはもう一度SNSへ戻ってきてほしい。いま社会を動かしてるのはNewPicksではなくてSNSなのだ。

残差IDF

ある単語の文書集合中での重要度の指標にIDFというのがある。
ja.wikipedia.org

DFというのは文書集合全体におけるその単語が出現する文書数で、IDFというのはInverse(逆の)DF、要するにたくさんの文章に出現する単語は価値が低く、限られた文章にしか出現しない単語は価値が高い、というものだ。

しかしIDFはけっこう当てにならないケースも多い。「ちゃらんぽらん」みたいな使う人が少ないからDFは少ないけど、とくに大した意味がない単語は、IDF的には価値の高い単語ということになってしまう。


それへの対策として、RIDF(残差IDF)というのがあるらしい。


ある単語の文章集合全体での出現回数がわかればポアゾン分布を利用して文書頻度(DF)を推定することができる。そして、実際の文書頻度と推定頻度との差をとった時に、差が小さければその単語は各文章に平均的に表れていることとになり、単語の価値が低い。逆に、差が大きい場合は単語が特定の文書に偏って出現しているということになり、そのように偏って出現する単語の価値は高い。ということのようだ。

不幸の移り変わり / ヤンキーとオタク

近頃は「このご時世に~」みたいな話に乗って退廃的なものが厳しく排除されていく傾向があります。この理由としてSNSの普及により相互監視が強くなったからだという話をよく聞くけど、僕はこの世界がヤンキー帝国からオタク帝国へ移り変わろうとしているのが大きな理由だと思っています。


僕はゼロ年代後半はニコニコ動画とかめちゃめちゃ見てたし少なくとも当時はそこそこなオタクでした。一方で、大学の時にゲーセンでバイトしてた1年間があって、ヤンキーなお客さんとばっかり遊んでた時期がありました。これがけっこう頭のおかしい人たちで、それこそ集団リンチとかもあったりして、僕の人生の中でもなかなか大変な1年間でした。僕は今の仕事がIT系だから職場にはオタクな人たちが多くてよく話したりするんだけど、一方でたまに当時のヤンキーな人達と会ったりすることもあります。そこで感じるのは両者の人生観の圧倒的な違いで、それをここ10年くらいの社会の移り変わりと照らし合わすと、ヤンキー的な人生観からオタク的な人生観へ社会が移り変わっているような実感があります。


オタクというのは「終わらない日常」と言われてたように、変化の少ない日常を指向していると思います。逆に言えば、オタク的な不幸というのはトラブルが発生することです。オリンピックとか日常が崩れるからうぜーし、異性とのコミュニケーションはトラブルだらけで基本的に不幸だ、みたいな。SNS上ではこの種の不幸を引き起こすものが炎上しています。


一方でヤンキー的な不幸もあり、それは「何も起こらないこと」だと思います。機会がないことが不幸なのです。


itonami.com


この記事を読んで今これを書いているわけなのですが、この出来事には2パターンの解釈があります。1つはこの記事で言っているように勢いでキスしてしまって気まずくなったというトラブル、つまりオタク的不幸です。「何もしなければよかった」というやつです。一方で、ヤンキー的にみると「キスした(された)」という機会が発生しているのでこれは不幸ではなくポジティブな現象です。不幸なのは「デートに行ったのに何もなかった」、あるいは「デートさえなかった」という状況なのです。


僕たちはこの2つの相反する不幸に折り合いをつけていかないといけないと思います。片方のオタク的不幸だけを採用しようとしているのが、いわゆる「このご時世~」で語られる最近の社会ですが、けっきょくそれではヤンキーが不幸になるオタク帝国が誕生するだけです。異性関係で言うなら、「男性にぐいぐい来られてつらい」と不幸になる女性がいる一方で、「男性がぐいぐい来てくれない」という理由で不幸になる女性もいるのです。


まあこの記事を目にしていただけるのはオタク的な人が多いと思うのですが、ヤンキー的な人達への想像力を働かせて、共存することを考えていくべきではないでしょうか。お互いに。


それは単に仲良くしようよということではなく、この2つの不幸は両方とも一人の人間の中に内在しているので、今のように比較的強い方だけがSNSによって強調されピックアップされてしまうと、全員が不幸になると思います。