インターネットとナショナリズム

インターネットにより社会の細分化と人々の分断が進むと、全体をまとめるものが求められるようになる。それがナショナリズムであり、否定神学的連帯であり、トランプであり反安倍でありN国党である。基本的には友と敵との線引きという発想で、全体をまとめるための思想としては、今のところこれに代わるものはない。




東浩紀さんが家族を推しているのは、家族は友敵でない方法でのまとまりを作れているように見えるからだろう。たしかに、(特に現代の核家族では)家族vs外部という対立はあまり見かけない。むしろ、家族の構成員はそれぞれが外部に出ることを求める。にもかかわらず、連帯している。

多様性を指向し差別を否定すると分断に向かう

先日、昔のインターネットは、様々なアイデンティティを内包していた1つのコミュニティだったからよかったというような記事を書いたけど、なぜそんなことが可能だったのかを悶々と考えていた。


たどり着いた答えは、使い古されたシンプルな考え方だ。友敵理論である。

www.bizlaw.jp


友敵理論は、外に敵を定めることで内の国民を統一するという、ナチスドイツの思想基盤だ。


多様性とまとまりを同時に持っていた昔のインターネット全体が、テレビや企業などの既得権益を敵対勢力としていたのは明白であり、既得権益との対立構造があったからインターネットというコミュニティは成立していたと考えられる。既得権益という敵がいるから、インターネット上で様々なアイデンティティを持つ人たちが、同じ1つの場にいると感じる出来たのだ。


様々なアイデンティティを内包するコミュニティを作るためには外部に敵が必要だと考えることにする。すると多様性を指向するリベラルのジレンマが見えてくる。


①多様性を内包するコミュニティを作るためには友敵が必要。
②多様性を許容するために友敵への区分や対立を否定する。


①と②とはどちらも多様性を指向する立場だが、同時には成り立たない相反する立場だ。そして今のリベラルは②を重視している。そう考えると、今の社会の状況が導き出せる。


「差別を否定するために嫌いなものを許容する」とは近年とてもよく聞く考え方だが、これは②に相当するものだろう。嫌いなものを嫌いなままその存在を許容はする。存在を否定はしないが考え方を肯定もしない。考え方の異なる人を敵にしないように関わらないようにする。これを続けていくと、考え方の同じ人同士が集まってコミュニティを形成して、考え方の違う人同士は関わることなく別々のコミュニティで生きていく。また、同じもの同士で繋がることを是とすれば、繋がり続けるための同調圧力も生まれる。


近年、ネット上には多様性を肯定する言説が溢れているのにも関わらず、分断はどんどんと進んでいる。その理由は、上記のような理由ではないだろうか。敵というものを否定すれば人は上手くまとまる事が出来ず、共生が出来ないのだ。外部に敵がいれば、同じものに敵対しているというだけで、考え方が違っても共生する事ができる。


といっても、やはり友敵でいくのもまずい。韓国は敵だとか、安倍晋三は敵だとか言っていれば色々な人が同じ場に集まる事が出来るだろうが、当人にとってはたまったものではない。


問題はいかに①を他の何かで代替するかだが、その方法はまだ見当たらない。さしあたって今出来るのは②を絶対視せず、それが分断に繋がっていることを認め、やりすぎない事だ。

ニコ論壇の終焉

2010年代も終わろうという2019年、色々起こっている。色々と節目をむかえているのかもしれない。


京アニの事件は象徴的な出来事かもしれない。絶望的な気分になるのは、あの事件は文化史視点からも語られるべきだと思うのだが、誰もその視点から語ることが出来ない。時代の空気がそれを許さない。


まあそれは今は蛇足で、陰鬱な気分になったのがあいちトリエンナーレの件だ。

news.yahoo.co.jp


この件は大炎上していて、「表現の自由」というテーマで議論されている。まあ実際それが一番の問題なのだが、個人的には別の違う視点で見ている。


津田大介だ。津田さんは、ニコ論壇唯一の生き残りだと思う。がちがちに固まった社会を変えようという言論空間がネット上に立ち上がったのが十数年前。なのだが、その後ドワンゴが手を引いたりなどもして、その頃活躍していた人たちは、テレビのコメンテーターやオンラインサロンや自己啓発や大学教員など、小さな世界を指向していった。


その中で唯一、政治や行政という大きな世界にコミットし続けていたのが津田さんだ。今回のあいちトリエンナーレの芸術監督という立場も、そうやって真面目にコミットし続けてきた結果たどり着いたポジションなのだ。そこで津田さんはアファーマティブアクションをテーマに打ち出して、かなり高い評価を得ていた。このまま成功させれば、より大きな世界に入っていけるはずだった。


そうやって津田さんが積み上げてきたものが、今回の炎上でついた強烈な負の印象でダメになってしまう可能性がある。猪瀬直樹さんにも「津田の性」と言われていた部分が最悪な形で出てしまった。


ここで津田さんがつぶれてしまうと、あの希望に満ちていたニコ論壇は結局何も生み出さなかったという結末になりかねない。なんとかあいちトリエンナーレの件が穏便に決着してほしいと思う。表現の不自由展は、津田さんが時間をかけて作ってきたあいちトリエンナーレという巨大なイベントのほんの一企画にすぎないのだから。

昔のインターネットはよかった?/誤配のあるコミュニティ

昔のインターネットはよかったというのはSNSなどで定期的に見かける話題だ。僕もゼロ年代好きだったから、もちろんその感覚がある。


しかしその理由になると途端によく分からない感じになる。もっと和気あいあいとしてみんな優しかった、という話も当時を美化しているだけのように思うし(当時も同じくらい荒れることはあった)、昔はすごい人たちがたくさんいたというのも、どちらかというと今の方がすごい人たちがみなインターネットをやっているだろう。


個人的には、昔は皆もう少し空気を読まずに自由に発信していたと感じているが、しかしそれも根本理由には届いてない気がしていた。


そんな感じで、「昔のインターネットはよかった」というのはいまいち言語化に困る感覚だったのだが、以下のツイートを見て、ああこれかもなあと思った。


昔のインターネットは、今と比べてアイデンティティの異なるもの同士が共生しているという感覚が強かったと思う。おそらくこれが「昔のインターネットはよかった」という感覚の源なのではないだろうか。


共生しているという感覚について、昔がよくて今はだめになった理由としては、単に規模の違いだろう。10年ほど前はインターネットが今から見ればまだまだ少数派の空間だったので、インターネット空間全体が1つのコミュニティのような機能を持っていた。「インターネットに参加している」という感覚が当時はあったと思う。今はもうないが。


決定的に重要だったのは、インターネットは基本的に回線があれば誰でも好き勝手に参加可能ということだ。誰でも好き勝手に参加可能なコミュニティとしてのインターネットは、様々なバラバラのアイデンティティを内包していて、それでいて規模の小ささゆえに1つのコミュニティとしての機能があり、ネットユーザー同士が同じ場にいるという感覚を持ち合わせていた。


本来会うはずのなかった人たちが間違って接続されることを誤配と言ったりするが、ゆるく柔軟に生きていくためには誤配が起こることが重要だというのは東浩紀さんの議論だ。昔のインターネットは、インターネット回線にたまたま接続した人が、インターネットという1つのコミュニティに組み込まれる状態になっていて、誤配の起こりやすい空間だった。おそらくこれが当時のインターネットの魅力だったのだろう。



2010年代に入るとSNSや動画サイトが流行し、インターネット利用者は爆発的に増えた。その規模の拡大のため、インターネット空間自体はコミュニティとしての機能を失っていった。


その結果として、インターネットの中にいくつかの大きなコミュニティ(クラスタ)が立ち上がってくる。この新しいコミュニティの形成はSNSのフォロー機能などを通して行われたため、コミュニティ参加者同士が強いつながりを持っている。最近ではオンラインサロンなどの、さらに強いつながりを希求する小さなコミュニティ群が形成されつつある。


綿野さんがツイートしていた、「様々なアイデンティティの持ち主が、その違いを超えて、同じ場や状況にいるという実感みたいなものは、やはり必要だと思う。」というのは、強いつながりのコミュニティではなかなか実現が難しい。昔のインターネットのような、誰でも好き勝手に参加可能でありながら1つのコミュニティとして機能するような、そんな誤配に満ちた弱いつながりのコミュニティ論が、次の10年では出てくるといいなと思う。

吉本興業のやつ

一応両者の会見は見たが。うーん。

世間では吉本がひどいという感じになっているけど、吉本側の会見も素直に聞くと、まじでどうでもいいことで大騒ぎしてるのではないかとしか思えない内容になってくる。


両者の会見の内容を素直に聞いて要約すると、以下の三点くらいしか内容がない。

①反社との意図的な繋がりは芸人にも吉本にもない。
②芸人は金銭を相当額受け取っている。かつ確定申告していない。
③社長の言葉使いが悪い。


①について。もうこれで結局何がしたかったんだっけとなる。反社との繋がりはない。会見のゴールは失われた。


②について。これは普通に問題だろう。特に受け取っていないという話から一転して受け取ったとなるのだから、影響範囲が大きく、広報としても話のまとめ方が難しい。


③について。これも色々と問題はあるのだろうが、②の問題を起こした者たちへの態度だということも加味して考えなければならないだろう。特に会見を開かなかった事が問題とされているようだが、しかし落ち着いて考えてみてほしい。金銭を受け取ってないから受け取ったと話をひっくり返し、金額面についても曖昧なまま、人数もどんどん増える。宮迫は憶えてないの一点張りだ。とにかく急いで状況を再確認して、適切に広報する必要がある。そんな状況で今すぐ会見やらせろと言われても、やらせないのが普通だろう。僕でもふざけんなと彼らを怒るだろう。



トータルして考えると、問題になるのは②しかない。②にしたって、反社とは知らなかったわけだし、実際のところ彼らの収入からすれば100万円程度は飲み代に消えるくらいの誤差だろうし、脱税といってもそこまで悪質なものではないだろう。


そうすると結局、この一連の騒動はなんなのか。ただ単に、部下が上司に不満をぶつけている。それだけの話を、他の様々なニュースを差し置いて、日本中巻き込んでやってるだけなのではないか。


本当にかんべんしてほしい。

選挙に行こうと、言いすぎてはいけない

PDCAまわしていこ

どう振る舞うか?

京アニの件で、SNS上で各人がどのように振る舞うべきかに焦点が当たっているのは、今までにない現象だと思う。


いろいろとリツイートなどをして言及し続けている人もいるが、一方で普段どおりに何事もなかったかのように振る舞うべきだという意見も大きい。おそらくこれは震災を起点としたここ10年のSNS上で起こった様々な事からの教訓から来ているものだろう。


まあしかし、個人的にはどっちでもいいのだろうと思う。例えば、話題に出さず普段どおりにしていようというのも一見すると一理ある。情動感染というのはたしかに問題なのだ。しかし、普段通りにしていようというのは、事件について言及している人が一定数いるから成り立つ考え方ではある。あれだけの事件が起こって、誰も話題にしたがらなかったらそれこそ異常な状況だろう。


まあつまり、言及しすぎてもいけないし、話題を遠ざけすぎてもいけない。全体としてバランスが取れていれば各人どちらで振る舞ってもいいだろう。


それよりも近年のSNSの問題は、一時的な爆発的な反応と、その後の食傷感だろう。この世界には簡単に飽きてはいけないものがあると思うのだ。ほどよいバランスで、ほどよい頻度で、持続的にこの事件を追っていくようにしたい。僕にとって人生で一番楽しかった時期はゼロ年代で、京都アニメーションはその中心にあった集団で、当時からの中心メンバーが何人も犠牲になっているという憶測も飛び交っていて、かなり堪えているが、ほどよいバランスで、ほどよい頻度で、持続的にやっていこう。