ネタバレ全開で劇場版 魔法少女まどかマギカを批判してみる

前回絶賛したのですが、まぁ絶賛してるだけじゃつまらないので批判もかきます。

http://fujiriko59.hatenablog.com/entry/2013/11/04/024507

 といっても、僕はまどマギの正当な続編、つまりほむらちゃんの最終回のあのシーンのその後が見れればそれで良かったので、そういう意味では大満足な作品だったのですが。

 

 

 

※以下、ネタバレ全開。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さーて、今回の劇場版批判は

 

①QB万能すぎ。

②さやかちゃんが登場するのはどう考えてもおかしい。

③テレビ版の神エンドがぶち壊し。

 

の三本です。

 

 

 

①QB万能すぎ。

まぁこれはいいですかね。まさかの円環の理ブレイカー。無茶苦茶です。が、まぁそもそもまどマギって無茶苦茶なのでここを突っ込んでもしょうがないですね。

 

②さやかちゃんが登場するのはどう考えてもおかしい。

劇場版にはまどかによって消されたはずのさやかちゃんが、そのままの人格で全ての記憶を持ったまま登場します。つまり、本物のさやかちゃんが登場します。これは一番あかんかったポイントですね。登場させるならもう少し別の方法にならなかったのかと。劇場版でなぜさやかちゃんが登場出来たのかというと、「円環の理に導かれた魔法少女は円環の理の一部になる」という設定を作ったからですが、この設定はいろいろとぶち壊しますね。この設定は劇場版ではずいぶんとサラっと出てきてますが大事件です。TV版ではマドカが永遠の孤独にとらわれるという自己犠牲により、全ての魔法少女を救うという結末でした。ところが劇場版で、実は魔法少女はみんな円環の理になるんだよ(テヘペロ)みたいないことになってしまって。それって魔法少女は最終的に必ずマドカによって永遠の孤独の中に放り込まれるということなので、魔女になるよりもずっとずっと残酷なことなんじゃないでしょうか・・・。いや、むしろ天上世界にはマドカファミリーみたいなのが広がっていてみんなでわいわいやってるんでしょうか。それじゃあむしろ全然孤独じゃないじゃんっていう。

マドカの孤独っていうのはこの劇場版の最大のテーマで、ほむらが「1人になるのは嫌」というマドカの話を聞いたところから結末へ向かっていくわけです。でもさやかちゃんも(だけじゃなく全ての魔法少女が)ちゃっかり円環の理になっちゃってると、マドカの孤独感や自己犠牲感とはなんだったんだと。いったいどうなってるんだ。わけがわからないよ。

 

③テレビ版の神エンドがぶち壊し。

まどかが魔女化したほむらを救済するってところで終わっていれば、この劇場版は非常に出来のいいエピローグになってたわけです。ところがまぁ最後にどんでん返ししてテレビ版のラストまでをも否定してしまうわけですね。テレビ版の最終回は本当によく出来ていたのですが、劇場版を見てしまうともうテレビ版の最終回は額面通りには受け取れなくなってしまいます。じゃあひっくり返して余りあるだけの内容がこの劇場版にあったかというととてもそうは思えません。「たとえ悪になってでも好きな人を救う」というほむらの決断は、それ自体は面白いけれど、テレビ版の最終回をそっくり否定してまでやるほどのメッセージ性はなかったように思います。しかもまどかを引っこ抜いても円環の理は機能し続けているという悪にもなりきれない中途半端さ。ここには前述の②の問題も絡んできて、もう何がなんだか感が半端ない。

 

 

という感じです。まぁ③は前回の記事では良かった点にあげているところでもあるのですがね・・・。③をやろうとするクリエイターとしての勇気は素晴らしいですが、質が追いついてたかというとまぁ疑問ですかねー。とりあえず②さえ解決する設定をなんかこさえてほしいなー。。。といってもこの設定はほぼさやかちゃんを登場させるためだけに使われているものなので、まぁここは見なかったことにしても問題はないかもしれない。

いずれにせよ、テレビ版では詳細に作りこまれていたSF的設定は、劇場版ではかなり荒いですね。といってもその辺りに、内容も大したことがなく結末もみんなが知ってるっていう縛りの中で作らなきゃいけないという、制作陣の苦悩が見え隠れしていて面白くもあるのですがね。