後ろめたさの倫理学

ワールドカップ大躍進に日本中が湧く裏で、選外になった選手や活躍出来なかった選手がたくさんいます。

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何かを褒めることで傷つく人がいる。これって倫理的に振る舞おうという人が見落としている事が多いポイントなんではないかと思います。ここのところ考えることが多いのは、批判と称賛とは本質的に同じことだということです。この世界は絶対評価ではなく相対評価で動く事が多いので、何かの評価を上げる(相対的に他の何かの評価が下がる)ことと、何かの評価を下げる(相対的に他の何かの評価が上がる)こととは結果的に同じ状態を生み出すのです。典型的な例を出せば「クラスの40人のうち39人を褒める」ことで残りの1人に対して強烈な批判を加える事になるのです。


といってもそもそも僕は個人的に何かを批判することは悪いことだとは思ってません。思ってはいませんが、何かを批判する時って他人を傷つける可能性があることは事実です。だから批判するのと同時に対象に応じて大なり小なりの「後ろめたさ」を感じることが大切で、この後ろめたさが批判が行き過ぎないリミッターというかブレーキの役割を担っていると思います。炎上のように集団的に何かを批判する場合も、この「後ろめたさ」が失われることが問題なのではないかなと思います。1人で渡るとドキドキする赤信号も、みんなで渡れば怖くないってやつですね。


何かを批判する事に「後ろめたさ」を感じる人はけっこういると思うのですが、この世界には何かを褒める事への「後ろめたさ」が不足しているんじゃないかなって思います。何かを褒めることに関してはリミッターが働かないことが多いですが、それは何かを批判することへのリミッターが働いていないのと同じことなのです。



SNSによって自分の考えが世界に対して直結しているこの世界で情報に流されず倫理的に振る舞うためには、「後ろめたさ」がキーワードになってくると感じています。具体的にはSNSで他人の投稿に「いいね!」する時に「後ろめたさ」を持つことが重要なのではないかなと考えています。