論理哲学論考 / ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読んだ。
- 作者:ウィトゲンシュタイン
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/08/20
- メディア: 文庫
ウィトゲンシュタインは人文系の中ではなかなか難解と言われることが多いかもしれないけど、これはむしろ理系(特に情報系)の人の方が読みやすいかもしれない。
これは「語られるもの」と「語りえぬもの」の境界についての本で、つまり人が考えることが出来る範囲の境界についての本で現代の情報科学的な見地からするとわりとすんなり咀嚼出来る内容だと思う。
語られるものと語りえぬものとの境界について、僕の解釈ですごく簡単に書くと以下のようになっていると言っている。
①世界は成立している事態で成り立っている。つまり世界とは人が知覚した物事の総体である。
②事態の中で、それ以上分割出来ない事態の最小単位を原子事態と呼ぶ。
③事態に対して人は言葉を与える。それを命題という。特に原子事態に対応する言葉を原子命題という。
④複数の命題の組み合わせとしても、別の1つの命題が作られる。
④「考える」というのは、命題の「真偽」を判定することである。
命題というのは言葉のことだと思っていいと思う。最も単純な原子命題は「空」とか「青」とかであり、これらを組み合わせた「空は青い」も命題という。
考えるというのは、命題の真偽、命題が成立するのかしないのかを判定すること。つまり、考えるというのは真偽関数のことである。
プログラミング言語で書くと以下のように書ける。
func meidai(meidai ...bool) bool { : : // 与えられた命題(true or false)の組み合わせから真偽値を導く : return true //or false }
命題の真偽とはどういうことか。「空」とか「青」とかの原子命題は、成立している事態そのものに対応しているのでtrueだろう。それらの組み合わせ「空は青い」もtrueであろう。しかしtrueである原子命題の組み合わせが必ずtrueになると限らない。たとえば「空は黄色い」は「空」と「黄色」というtrue同士の組み合わせだがfalseになる。
「魔法はある」という空想はfalseの命題として表現出来る。
もちろん命題のtrue/falseが一意に決まるわけではないだろう。たとえば「オタクはキモイ」というシンプルな命題でも、trueにするのかfalseにするのかは簡単には決まらない。(このように一意で決まらないような命題はナンセンスであり、そのような命題が出来てしまうのは言語(原子命題)の問題であるような事も書かれている。)
さらに、「空は青い」という2つの原子命題を組み合わせた命題と、「晴れ」という別の命題とを組み合わせて「晴れた空は青い」という命題が作られる。「晴れた空は青い」はtrueで、「曇りの空は青い」はfalseである。このように命題同士は互いに結合してあたらしい命題が生まれる。
原子命題はたくさんあり、それらを任意に組み合わせた命題となると膨大の数がある。しかもどのようにも命題を組み合わせて新たな命題を生成可能である。
考えるというのは、そんな無限と思えるくらいにたくさん存在する命題についてその真偽を判定することである。
逆に言えば命題として表現出来ない事は考えることが出来ない。あらゆる命題は分解していけば原子命題の組み合わせになるので、原子命題の組み合わせとして表現出来ないことは考えることは出来ない。原子命題というのは単純な事態に対して与えた言葉なので、人は「言葉の組み合わせとして表現出来ないこと」は考える事が出来ない。
それが「語られるもの」と「語りえぬもの」の境界。
論理哲学論考はそんな感じのように読んだ。この本のすごいところは、この内容で20世紀初頭に書かれたことだろう。
「真」と「偽」の2値と、それらを組み合わせて別の「真」と「偽」を導く。それこそが「考える」ことだとウィトゲンシュタインは言っている。これは、0と1の2値と、論理演算「AND OR NOT」だけであらゆる計算を行うコンピューターの発想そのものである。
ちなみに、後にウィトゲンシュタインはこの論理哲学論考の結論を否定したりするようなのであしからず。次は哲学探究を読もうかな。言語ゲーム。