芸術について

近頃は芸術について考えることが多い。


週末に暮らしの夢展というのに行ってきた。

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それにあたって少し予習しておこうと思ってモダンデザインについて色々見ていたのだけれど、モダンデザインの成り立ちは非常に興味深かった。


モダンデザイン(近代のデザイン)という言葉からは比較的最近のデザインのことなのかと感じるけど、そもそもデザインという概念は近代から始まっているようだ。だからモダンデザインというのはデザインの元祖なようだ。


近代という時代は産業革命とともに始まる。そしてデザインもまた産業革命に伴って生まれる。


労働の工業化に伴い、物は大量生産される時代になる。それに伴って僕たちは労働者になった。僕たちは商品を大量生産するシステムの一部になって、粛々と目の前の業務をこなしていく。


大量生産以前の世界では、僕たちはみな小さな芸術家だった。それぞれ仕事の成果物にはそれをやった人の個性が表現されていた。


大量生産以降の世界では、僕たちは労働者になり、交換可能な存在として扱われ、成果物からは誰が作ったかはとても読み取れない。むしろ、その仕事を誰がやっても同じに出来るようにマニュアル化することが重要だ。


そんな大量生産の時代に、ある人達はこの状況は人々の心をダメにすると考えた。そこで、大量生産される無機質な商品に対してデザインを加えて(デザインの誕生)、商品を再び芸術作品に近づけて、労働者が再び芸術家に近づくことを指向した。



↑というのが、けっこう心に残った話。まあけっこう盛ってる話で意訳も多い。


この話の面白いところは、芸術の必要性を別の角度から見ているところだ。一般的に「芸術は人生を豊かにする」と言われていたりもするけど、それは「芸術作品」を「鑑賞者」として鑑賞するという意味合いだろう。


実際のところ、今の時代にクリエイターと呼ばれるのは、文学を書いたり、絵を描いたり、音楽を作ったりと、とても限定的な職業に限られている。芸術家と労働者との間には線引きがある。


しかし芸術の必要さというのはそういうことではないのではないか。本来、僕たちの仕事や生活には芸術的な要素がたくさん詰まっている。あの人がやったからこういう結果になる、ということがたくさんある。ある時期まで、僕たちはみな芸術家だった。


しかしたとえばボタン一つ押すだけで誰でも洗濯が出来るようになれば、洗濯からは芸術性は失われる。そうやって、テクノロジーの発達とともに僕たちの人生から芸術というものは奪われていき、芸術家と労働者とは完全に分離され、なんとかかろうじて鑑賞者として生き延びている。


思い立って芸術家になろうと思っても、絵を描くだとか音楽を作るだとか定型的な選択肢に突き進み、そしてそれは全人口から比べたらとても狭い門だ。


僕は趣味で作曲をしたりしてたから、どちらかというと物を生み出した時の感覚を知ってる方じゃないかと思うのだけど、その感覚を、みなが日々の暮らしの中から得られる社会になったら素敵なことだと思う。その1つの試みとしてのモダンデザインというストーリーは、とても良い話だなあと思った。