作品に罪はない・・・(?)

電気グルーヴの事件とその後の作品回収騒動で作品に罪があるとかなんとかが話題になっている。

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ネットでは作品に罪はないっていうのが大勢のようなので、物事は複雑に考えるべきだという観点からあえて作品にも罪はあるだろっていうのを少し書いてみる。


そもそも芸術というのは人が人(の作ったもの)を評価するものだ。ある意味ではそれは純粋に人と人とのコミュニケーションなのである。作品の解釈は鑑賞者に委ねられているが、その解釈の過程では作者や時代の文脈へ接続している。作品に罪があるという話では、定期的に話題になるナチスについて参照するのが分かりやすいかもしれない。

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ナチスの制服や鉄十字などは単なるデザインであるが1940年付近の時代の文脈を持っているため、これらを利用することは基本的に禁止事項だ。これらのデザインは大量虐殺という罪を引き受けている。こう書くとナチスを持ち出すのは極端だと感じるかもしれないが、言いたいのは作品が罪をもつことはあるということで、それは作品の文脈の問題であるということだ。


さて、電気グルーヴのドラッグ問題。これはミュージシャンがたまたまドラッグをやっていたという単発的な問題ではなく、ダンスミュージック/クラブカルチャーとドラッグとが深く結びついてきた文脈がある。

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音楽とドラッグとが接続しているのもたまたまではない。クラブでダンスミュージックに合わせて朝まで踊るためにドラッグが必要とされたのだ。だから作品やその消費の構造の内部にドラッグがある。


ミュージシャンがドラッグをやっているという事件はこの文脈に直接的に接続している。今回の件で「被害者がいない」として作品に罪はないとしていることが多いが、「ダンスミュージックとドラッグ」の文脈と接続して考えれば、この文化によってたくさんの命が失われているのだ。


したがって作品に罪はないと簡単には言えない。構造としてはダンス+ドラッグから生み出される音楽は、ナチスの制服デザインと同じで負の歴史と接続しているのだ。


まあ先にも書いたがここに書いているのは話を複雑にするための逆説的な話で、僕も回収はやりすぎだと思う。でも多少の複雑さを引き受けて「作品に罪がない」とはどういうことなのかを考えてみるのがいいだろう。坂上忍のようなものを仮想敵にしてあれこれやってたって何の解決にもならない。