昔のインターネットはよかった?/誤配のあるコミュニティ

昔のインターネットはよかったというのはSNSなどで定期的に見かける話題だ。僕もゼロ年代好きだったから、もちろんその感覚がある。


しかしその理由になると途端によく分からない感じになる。もっと和気あいあいとしてみんな優しかった、という話も当時を美化しているだけのように思うし(当時も同じくらい荒れることはあった)、昔はすごい人たちがたくさんいたというのも、どちらかというと今の方がすごい人たちがみなインターネットをやっているだろう。


個人的には、昔は皆もう少し空気を読まずに自由に発信していたと感じているが、しかしそれも根本理由には届いてない気がしていた。


そんな感じで、「昔のインターネットはよかった」というのはいまいち言語化に困る感覚だったのだが、以下のツイートを見て、ああこれかもなあと思った。


昔のインターネットは、今と比べてアイデンティティの異なるもの同士が共生しているという感覚が強かったと思う。おそらくこれが「昔のインターネットはよかった」という感覚の源なのではないだろうか。


共生しているという感覚について、昔がよくて今はだめになった理由としては、単に規模の違いだろう。10年ほど前はインターネットが今から見ればまだまだ少数派の空間だったので、インターネット空間全体が1つのコミュニティのような機能を持っていた。「インターネットに参加している」という感覚が当時はあったと思う。今はもうないが。


決定的に重要だったのは、インターネットは基本的に回線があれば誰でも好き勝手に参加可能ということだ。誰でも好き勝手に参加可能なコミュニティとしてのインターネットは、様々なバラバラのアイデンティティを内包していて、それでいて規模の小ささゆえに1つのコミュニティとしての機能があり、ネットユーザー同士が同じ場にいるという感覚を持ち合わせていた。


本来会うはずのなかった人たちが間違って接続されることを誤配と言ったりするが、ゆるく柔軟に生きていくためには誤配が起こることが重要だというのは東浩紀さんの議論だ。昔のインターネットは、インターネット回線にたまたま接続した人が、インターネットという1つのコミュニティに組み込まれる状態になっていて、誤配の起こりやすい空間だった。おそらくこれが当時のインターネットの魅力だったのだろう。



2010年代に入るとSNSや動画サイトが流行し、インターネット利用者は爆発的に増えた。その規模の拡大のため、インターネット空間自体はコミュニティとしての機能を失っていった。


その結果として、インターネットの中にいくつかの大きなコミュニティ(クラスタ)が立ち上がってくる。この新しいコミュニティの形成はSNSのフォロー機能などを通して行われたため、コミュニティ参加者同士が強いつながりを持っている。最近ではオンラインサロンなどの、さらに強いつながりを希求する小さなコミュニティ群が形成されつつある。


綿野さんがツイートしていた、「様々なアイデンティティの持ち主が、その違いを超えて、同じ場や状況にいるという実感みたいなものは、やはり必要だと思う。」というのは、強いつながりのコミュニティではなかなか実現が難しい。昔のインターネットのような、誰でも好き勝手に参加可能でありながら1つのコミュニティとして機能するような、そんな誤配に満ちた弱いつながりのコミュニティ論が、次の10年では出てくるといいなと思う。