多様性を指向し差別を否定すると分断に向かう

先日、昔のインターネットは、様々なアイデンティティを内包していた1つのコミュニティだったからよかったというような記事を書いたけど、なぜそんなことが可能だったのかを悶々と考えていた。


たどり着いた答えは、使い古されたシンプルな考え方だ。友敵理論である。

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友敵理論は、外に敵を定めることで内の国民を統一するという、ナチスドイツの思想基盤だ。


多様性とまとまりを同時に持っていた昔のインターネット全体が、テレビや企業などの既得権益を敵対勢力としていたのは明白であり、既得権益との対立構造があったからインターネットというコミュニティは成立していたと考えられる。既得権益という敵がいるから、インターネット上で様々なアイデンティティを持つ人たちが、同じ1つの場にいると感じる出来たのだ。


様々なアイデンティティを内包するコミュニティを作るためには外部に敵が必要だと考えることにする。すると多様性を指向するリベラルのジレンマが見えてくる。


①多様性を内包するコミュニティを作るためには友敵が必要。
②多様性を許容するために友敵への区分や対立を否定する。


①と②とはどちらも多様性を指向する立場だが、同時には成り立たない相反する立場だ。そして今のリベラルは②を重視している。そう考えると、今の社会の状況が導き出せる。


「差別を否定するために嫌いなものを許容する」とは近年とてもよく聞く考え方だが、これは②に相当するものだろう。嫌いなものを嫌いなままその存在を許容はする。存在を否定はしないが考え方を肯定もしない。考え方の異なる人を敵にしないように関わらないようにする。これを続けていくと、考え方の同じ人同士が集まってコミュニティを形成して、考え方の違う人同士は関わることなく別々のコミュニティで生きていく。また、同じもの同士で繋がることを是とすれば、繋がり続けるための同調圧力も生まれる。


近年、ネット上には多様性を肯定する言説が溢れているのにも関わらず、分断はどんどんと進んでいる。その理由は、上記のような理由ではないだろうか。敵というものを否定すれば人は上手くまとまる事が出来ず、共生が出来ないのだ。外部に敵がいれば、同じものに敵対しているというだけで、考え方が違っても共生する事ができる。


といっても、やはり友敵でいくのもまずい。韓国は敵だとか、安倍晋三は敵だとか言っていれば色々な人が同じ場に集まる事が出来るだろうが、当人にとってはたまったものではない。


問題はいかに①を他の何かで代替するかだが、その方法はまだ見当たらない。さしあたって今出来るのは②を絶対視せず、それが分断に繋がっていることを認め、やりすぎない事だ。