多様性 / 共生 の構築

多様性が大切という文脈においては、佐々木俊尚さんが言ってるこの話が主流の考え方だろう。


「多様性とは、自分にとっては不快で嫌いなものであっても許容すること。」


だけど僕はこの考え方は間違っていると思う。嫌いな人と一緒にいるストレスに人は耐えられないだろう。ストレスは万病の元であり、ストレスを我慢することは出来ないし、健康のためには我慢しない方が良い。せっかく我慢していても酒を飲んで台無しという話もよく聞く。そのため、ストレスを受けない方法を取らざるをえないが、佐々木さんの言う「嫌いなものを許容する」という方向では「棲み分ける(=存在は認めるけど関わらない)」しか道がなく、これははっきりと分断に繋がる。


従って、分断ではなく共生の道を取るためには、シンプルに考えて「嫌いにならない」という方向を模索するしかない。


人を嫌いになるというのがどういうことかを考える必要がある。おそらく、SNSが登場してからすごい勢いで人は人を嫌いになっていってるが、ここには人を嫌いになるメカニズムの変化があったと思う。その変化とは、他人への評価のワンイシュー化(単一事項化)である。ネトウヨ、リベラル、原発の賛否、オタク、ヤンキー。何か1つの物事への態度をもってその人の評価を決める。「ネトウヨは嫌い!」みたいなやつだ。もちろん昔からこういう傾向はあったが、SNS時代になってかなり顕著になった。


この際に「ネトウヨは嫌いだが許容する」というのは人の性質としてはなかなか難しいものがり、実際出来てないし、もし出来たとしたらネトウヨが視界から消える完全な分断が達成された時だろう。許容するというのは分断の思想なのだ。


なぜこのようなワンイシュー化が起こったのかといえば、全員が共有していた大きな物語が崩壊したからだろうが、もっと根本的な原因としては物事の価値の大きさが順位付けされていることだろう。つまり、政治や経済は上等な物であり、漫画や音楽は下等なものである、というような順位付けだ。あるいは逆に、漫画が上等で政治が下等であるという人も多いだろう。いずれにせよ一人の人の考えることは多岐に及ぶが、それらの間に順位がついている状態では他人への評価はワンイシューになりがちだ。


従って、人を嫌いにならないためには物事の間に順位をつけないことが大切になってくるだろう。政治と経済と漫画と音楽とその他もろもろ、その全てに同じくらい価値がある。あいつはネトウヨだが同じ映画が好き。それならば映画について話せば友達になれるだろう。ネトウヨは嫌いだが、それと同じくらい映画の好みは重要なのだ。


これは文化の力だろう。きっと、共生を目指すためには文化についての教育が大切なのだろうと思う。受験科目が最優先、ではなく、美術や音楽や家庭科に同じくらい価値がある。そういう教育が。