ツイッターを離れる

最近ツイッターを辞めた方がいいのではないかと思って、少し距離を置くようになった。


ツイッターは10年来使ってきていて、2010年代は僕の生活の1つの中心であった。まあその中で色々と問題も見えてきていた。そういえば2017年ころにはSNSヤバイという曲を作ったりなんかしてたので、まあこの頃にはかなり確信をもってツイッター良くないと思っていた。


基本的にはツイッター各種問題は、その使い方に問題があるという風に考えていたのだけれど、今年に入ってからはツイッターそのものに原理的な問題があると強く考えるようになった。


元々ツイッターというのは、普段はなかなか話せないようなプライベートな話をみながツイートすることで、多様な価値観が可視化されるような場所だった。それが好きだった。


人と人とが接触すると「誰かと話して考え方が変わった」という現象が起こる。この現象は一般的には良い事だと受け取られる。誰かと話て世界を広げられたのだ。しかしながら、「考え方が変わった」ということはそれまで考えていた事はどこかにしまったということなので、損なわれたものも確かにあるのだ。


SNS上では人と人との接触が過剰になるため、「考え方が変わった」という出来事が頻繁に起こる。特にツイッターにはいくつかの響きの良い話や、心が躍る友敵構造があるので、ユーザーはそちらの方向に考え方を変えていく。時として、自分の考え方が変わったことに気が付かない。みなが考え方を変えていった結果として、多様だった考え方は有限のパターンに収束し、他の誰かと同じことを話し始める。SNSはそういう構造になっている。


今年いろいろと話題だった「ハッシュタグで政治参加」みたいなものはこの同化現象の1つの極致である。200万人だか300万人だかがたった数十文字のissueに賛同する。そのうちのほとんどの人は元々そんなもの気にも留めていなかったはずだ。しかしあのハッシュタグがタイムラインに流れてくると、それは強い強制力持っていて、それを見かけた数分後には(まるで自発的かのように)ハッシュタグをツイートしてしまう。しかしそれは政治参加をしているのではなく、ただSNSの同化構造に取り込まれただけなのである。


宇野常弘さんがよく「SNSの登場によって、人々が考えてることはみなほとんど同じだということが明らかになってしまった。」と言ってるのだけど、僕としては元からそうだったのではなく、多様な感性や価値観がSNSにより損なわれてしまったのだと考えている。


結局のところ、個々人が自分独自の考え方を維持し続けるためにはそれがある程度「秘密」になっていることが重要であり、その秘密は当人にとって信頼のおける人に対してのみ開示されるべきものであり、その秘密の内容を公開してみなで議論しようなどということをしてしまうと、既存のパターンに収まるように矯正されてしまうのである。


別の言い方をすれば、ツイッターというのはPrivate空間の新しい形だと思われていたが、それは幻想で、ツイッターというのは完全に従来どおりのPublicな空間であり、Publicなものに対して何かをしようという気は僕にはないのだ。それに過剰に関わると、矯正されてしまうからである。


この現代的な問題を解決するためには、上記のSNSの構造を脱構築する必要があるが、しかしそれをSNS上で行おうとすると原理的に自らがSNSの構造に取り込まれてしまう。


これは余談だけど、民主主義というのは案外プライベートが重要である。人と人同士がある程度疎結合の状態になっていることが、民主主義のシステムとしての堅牢さを担保している。SNSが出来て社会的な議論が活性化したことにより、人同士の密結合化が起こり、民主主義というシステムが脆弱になっている可能性が高い。皆で議論して1つの結論を導き出すというのは、誰かが1人で考えているのとあまり変わりがない。個々人がそれぞれバラバラに判断して投票出来ることがなによりも重要なのだ。個々人のユニークな判断力がSNSの同化構造にハックされた瞬間に、民主主義の堅牢さは損なわれる。