このてーしょんの攻撃性について

怒られた。とはいえ僕としてもこれを引っこめるわけにはいかない。僕の経験では誰かに攻撃を受けてる最中(特に炎上のように多数の人から攻撃されてる最中)にあっては、このような第三者を装って客観的かつ公平な立場からそれでいて攻撃者を正当化する意見で介入してくるアクターの隠された攻撃性が一番きついからだ。




ところでそれはおいといて、事実があるとかないとかいう話になったから、これについて補足を書いておく。


言葉が持つ意味は大きく以下の2つに分けられる。

デノテーション:言葉の辞書的な意味。
コノテーション:言葉が文脈や状況などから喚起する言外の意味。

けんすうさんが事実はあると言っているのはデノテーションのことを指している。しかしデノテーションというのは必ずしもコノテーションに対して優位というわけではなく、受け手に喚起するあらゆる状況下における平均的な解釈でしかない。


たとえばもっと分かりやすい例としては「あなた在日でしょ」という言葉。デノテーションとしては、僕があなたに対して在日韓国人なのではないかという予測を伝えているだけだ。しかし同時に今の日本ではこの言葉は人種差別的な攻撃だと解釈することが出来る。このように、攻撃的な言葉を用いなくてもコノテーションだけで他者を攻撃することは簡単に出来るのだが、この攻撃への対処がなかなか厳しい。あなたがこの差別発言に怒って「差別すんじゃない」と言い返したとする。そうなったら僕はこう返せばいい。


「差別をしたという事実はない。勝手に解釈するな。」


特に多数派に立っている場合はこの主張は強固なものとなり、これに対する反撃はほぼ不可能になる。


これに対してどのように対処するのがいいのかはよく分からないところではあるけれど、「この世界には解釈しかない」という方向で行こうと決めたのは1つの試みで、まずこの反撃不可能の構造自体を暴かないとだめかなと思う。争点にすべきは事実の所在ではなく解釈の正当性なのだ。


という話を140字の中でももう少しちゃんと出来たかもしれないけど、やはり140字はきつい。

ネトウヨについて

僕の記憶では90年代~2000年代前半くらいまで、「人が生きる意味とは?」みたいな話題をよく見かけたと思う。僕らは何のために生まれて生きているのか。そんなことをたくさんの人が考えていた時代。これはつまり交通や通信の発達、あるいは日本においては天皇制の形骸化などによって、国家という大きな枠組みが希薄になってみんな道に迷っていた時代。皆がそれぞれ目標を設定して自立して生きていかなければならない、とても自由でしかしとても不安定な時代。


そんな時代を経て我々が辿りついた1つの道が「ネトウヨ」。ネトウヨとはけっきょくなんだったのかと考える。


まず彼等は上記のような時代の流れ従って目標を設定した。美しく強い国日本を作る。これはとても良い目標だと思う。現実の日本は平成不況真っただ中で経済的にも中国韓国に追いつかれようとしていて、とてもそんな状況ではなかった。でも美しく強い国になるように自分たちが努力して地道に国を作っていく。大変だけど良い目標だ。自分自身の存在意義をそこに見出せるかもしれない。


しかしそれはやっぱりなかなか厳しい道だった。その目標はあまりにも大きすぎて達成出来ないかもしれない。そもそも日本のことを考える前に自分自身の生活だって大変なことになっている。良い国を作ろうと思っても、具体的に明日何が出来るわけでもない。かといってこの目標を失ってしまえばまた混沌とした意味の見えない世界に逆戻りだ。そこで彼等はある空想を生み出した。


「日本は”本来”美しく強い国である」


そう、この国は本来は美しい国なのだ。そういう絶対的な存在にしたのである。しかし現実にはそうは見えない。平成不況はがんがん続いているし、復活の兆しも見えない状況だ。そこでもう1つ新しい論理が加えられる。


「日本は”本来”美しく強い国である。にもかかわらず現実でそうはなっていないのは、日本に”不純物”が混ざっているからだ。」


ここでいう不純物というのは「中国韓国」「在日朝鮮人」「反日左翼」などだ。これらが混ざっていることによってこの国は美しくもないし強くもなくなっている。しかし逆に言えばこれらを排除すれば美しく強い国日本が表出するはずだ。このような考え方にすることで、「日本を美しく強い国にする」という目標を「本来の美しく強い国日本を取り戻す」という目標に転換することが出来る。そうとなればあとは分かりやすい。不純物を排除すればいいのだ。


もともと超大変だった「美しく強い日本を作る」という目標。目標に向かって一人の人間が何を出来るのかもわからない。しかし「本来の美しく強い国日本を取り戻す」が目標となれば、家でキーボードをぽちぽちしながら2chとかに不純物への誹謗中傷を書き込むだけで目標解決に向けた1つの行動をしたことになる。家から出ないどころかもはやPCの前に座っているだけだ。ちょっと暇で体力がある人はデモとかに行って「出ていけー!」と叫んでみてもいいだろう。


こうして彼らは生きる意味を手に入れることが出来た。これがネトウヨである。


そして時は2019年になって、このような”本来”という空想がインターネット上で猛威をふるっている。


本来、日本は強く美しい国のはずだ
本来、隣国とは仲良く出来るはずだ
本来、男と女とは平等なはずだ
本来、労働者は残業をしなくていいはずだ
本来、この世界は平和なはずだ


そうやって、たくさんの人がPCやスマホでぽちぽちと不純物を攻撃して社会貢献している。


2019年になって平成も終わろうとしている。僕らはもう一度、この世界には意味がないということを考えなければならないのではないか。”本来”なんていう神様のような都合のいい絶対的な存在がないことくらいみんな本当は分かっているはずだ。何もない世界に0から地道に作り上げていかなきゃいけないんだ。

ちゃらんぽらんのコミュニケーション力

コミュニケーション力というのは要するにあらゆることを気にしない力みたいなもののようです。

www.youtube.com


去年色々な人と飲んだりしてたのですが、その中でシフト勤務でキャバ嬢指名2位まで行ったらしいコミュ力お化けみたいな人と飲んだりしました。それでその人と飲んでる時に「私ちゃらんぽらんなんですよね~」みたいな事を言っていて、なるほどこの宣言はたしかに重要な事なのかもしれないと思ったりしました。


特に僕みたいなコミュ障系オタクの人達は周囲から「まじめ」という評価をされがちですよね。どうもそれがコミュ障に繋がっているのではないか説みたいなものを考えたわけです。


つまりですね、休日は家に引きこもってアニメとかtwitterとかyoutubeばかりみている人が「まじめ」なわけがないんですよ。普通に考えて。だって何の社会奉仕もせずにアニメとかひたすら見てるわけですから。ところが引きこもってるとなぜか「まじめ」みたいなイメージが勝手についてきてしまうんですね。引きこもってるだけなのに。だから、一方で僕はひたすらyoutubeを見てるだけなのに、もう一方で「まじめ」という評価をいただいているという奇妙な状況になりがちになります。


そうするとせっかくもらった「まじめ」という評価の範囲内で振る舞おうとして、現実とのギャップが生まれてしまい、話せることがなくなっちゃうんですよね。だって僕がまじめじゃないのは確定的に明らかですから。


それで僕は思うのですが、コミュ力アップ対策としては冒頭の「私ちゃらんぽらんなんですよね~」宣言をしてしまうのが良いと思いますね。つまり僕はどう考えてもめちゃくちゃなのです。だってYoutubeしか見ていないと。だからそれを宣言すると、ギャップが埋まってけっこう何でも話せるようになります。それでこの「ちゃらんぽらん」という言葉がなかなかよくて、これ日常生活ではめったに出会わない言葉なので、私めちゃくちゃです宣言をマイルドなニュアンスにしてくれる感じがします。


この宣言さえしてしまえば、相手ドン引きみたいになってもめちゃくちゃでさーせんみたいな感じで、全てがスルーされていきます。何もかもがスルーされてく状況を作れると、コミュ力というのはスルースキルとほぼ同義なので、けっこう話せるようになるんじゃないかなって思います。


※ちなみにオタ話になると得意な話題を超絶喋りまくってしまう系コミュ障は対象外です。ってかそういう人はもう喋ることが出来るのだから相手の話を聞くことを意識するだけでいいと思います。

結婚しないということ

人間30代も半ばとかになってくると、さすがに結婚とかについて考えないわけにはいかなくなってくるわけです。世の中の流れ的にダイバーシティとかあって、「結婚しろ」みたいなこというと炎上するみたいな世界がやってきてるわけですが、まあ実際のところ結婚しない人を素直に認めてあげるのが正しい選択肢なのかと言われるとなかなかうーんとなります。


つまりですね、「結婚しなさいよ」とおせっかい言われて絶望するケースはあまり想像出来ないんですけど、独身中高年になった時の強烈な孤独感や絶望感みたいなものはけっこう想像出来るんですよね。まあダイバーシティの論理展開としては、「結婚しないさい」と言う人がいるから独身者が絶望するんだということなのですが、僕もだんだん歳をとって肌感覚でやべー孤独みたいなのを感じてくるとですね、孤独っていうのはそんな生半可なものじゃなさそうだぞと、ひしひしと思うわけです。



それとはまたちょっとずれるんですが、「俺は俺で勝手に生きて死んでくんだし誰にも迷惑かけないから勝手にさせろ」みたいな話もよく見かけるんですけど、この世界に生まれちゃったからにはなかなか関係ないと言うことは出来ないんですよね。


僕たちは1/2の確率で男女分かれて生まれてきているわけです。それで、感覚的には場の力学みたいな話なのですが、この世界は1/2で男が生まれて1/2で女が生まれるという強制力のある場なのですから、僕が男として生まれたことによって確率的に別の誰かが女として生まれているわけですね。この両者の生は関係なくないんですよ。独身男性が孤独であるということは、対になっている女性も孤独になっているんです。だから「俺は関係ない」と言うことは出来ないんです。だってそれは事実だからね。


だからといって必ず結婚するべきだとは思いませんし、独身であっても1つの人生だと思うのですが、どこの誰だかも分からないけど自分と対になって生まれてきた一人の女性を孤独にさせているという罪悪感のようなものを、少し持っていた方いいんじゃないかなって思います。


まあそんなの関係なくどのみち生半可じゃない孤独がやってくるわけなんですけど、そういう罪悪感が心にあると、きっとその罪悪感は自分と社会とのつながりになると思います。これは上手く説明出来ないんですけど、「結婚なんか知ったこっちゃねー」と悟りを開くんじゃなくて、どっかの誰か結婚出来なくてすまねーなーくらいの感じで、僕はいこうと思いますよ。


まあ先のことは分からないですし、数年後にはころっと結婚してるかもしれない。といっても僕は家族という概念に対してかなり強い嫌悪感があるから、難しいかもしれないけどねー。

否定神学システム 炎上/ヘイト/テロ

引き続いてインターネットの炎上やヘイトなどについて。当面はもう書かないかしら。予定は未定。


炎上やヘイトについて考える時に、絶対に避けてはいけないと思われるものが否定神学システムとかいう考え。東浩紀読者さんにはおなじみの言葉かもしれません。といっても僕も人文を専門で学んだわけではないので理解が及んでないところもたくさんありますが。


否定神学というのは否定表現によって神の姿を語るというもの。
ja.wikipedia.org


何かの姿を形作る時に方法は2つあって、1つは何もない空間に材料を積み上げて形にする方法。ガンダムのプラモデルを作る時に、ガンダムを構成するたくさんのパーツを1つずつ組み上げてガンダムを完成させていくようなもの。ガンダムを作るならこれが一般的ですね。でももう1つやり方があって、それは均質な物体を用意して、彫刻のようにそこから不要な部分を削りとっていくことでガンダムを作るという方法です。


否定神学というのは後者のような感じで、この世界の中から神ではない部分を否定し削り取っていくことによって神の姿を作ることが出来る、というものです



以上が否定神学だとして、否定神学システムとはなんぞやというと、否定神学システムというのは僕たちのアイデンティティを形成するための仕組みのことです。僕たちは上記の否定神学のように、この世界の中の自分ではない外部を否定することによって、自分自身という存在を認識しているということです。


つまり僕たち人間がアイデンティティを保つためには外部(=敵)を必要とし、敵を否定して排除していくことで初めて自分自身を認識出来る。僕たちみんながもっているそのようなアイデンティティ形成の仕組みに、偉い人が否定神学システムというかっこいい名前をつけました。


さて冷静になって考えてみると自分のアイデンティティを認識するというのはなかなか大変なことです。この世界は本来あまりにも自由であまりにも無秩序で、科学的にみれば宇宙空間の中を小さな小さな素粒子が強い力/弱い力/電磁気力/重力の4つの力に流されるがままにうごめいているだけにすぎません。時間の一方向性の否定とともにもはや因果律/自由意志も否定されかけています。


そんなカオスな世界の中で、僕たちは否定神学システムを使って、敵を否定することによって自我を保っています。しかしみんなで殺し合っていた大昔の人類ならともかく、今は日常的に殺しに来る隣人もずいぶん少なくなったし、本当に敵と呼べるような人はかなりレアな存在になってしまいました。この状況は一方から見れば平和で素晴らしい世界です。しかしもう一方から見ると自我崩壊の危機に晒されている危うい世界です。なんといっても敵がいなければ僕の固有性は崩壊して、この世界が素粒子が飛び交うだけの単なるカオスであることが明らかになってしまうのだから。


しかしこの否定神学システムというのはとてもよく出来ていて、敵が実際に存在していなくても機能することが出来るのです。敵がいないならあいつを敵ってことにすればいいじゃないか。ってやつです。


中国や北朝鮮が攻めてくる
在日韓国人が日本国を崩壊させる
オタクを潰しに来ているやつらがいる
多様性を認めないやつらがいる


僕たちは自分のアイデンティティを維持するために、あいつは敵であるという空想の世界を作りあげていく。そうする必要があるのです。


良識的な人であればそういうやり方はよくないんじゃないかと思いいたるかもしれませんが、否定神学システムというのはなかなか頑丈で、


中国や北朝鮮が攻めてくる(という空想に浸ってるけしからんやつがいる)
在日韓国人が日本国を崩壊させる(という空想に浸ってるけしからんやつがいる)
オタクを潰しに来ているやつらがいる(という空想に浸ってるけしからんやつがいる)
多様性を認めないやつらがいる(という空想に浸ってるけしからんやつがいる)


という形で、その内省すらも新しい敵を形成するための素材にして空想を作り上げていくのです。




ところで、否定神学システムというのは人の持っているアイデンティティを形成するための基本機能であり、それ自体は別に悪いものではないのです。自分の心の中で思っていたり、せいぜい近所のおっちゃん達と中国うぜーよなとかヤンキーうぜーなーとか言ってる分には、実はそれくらいの方が健全な状態であるのではないかと考えられていたりします。


しかしここ最近のグローバリゼーションやインターネット/SNSの登場により人と人とのコミュニケーションコストが劇的に下がったことで、たくさんの否定神学システムが集中して暴走し、また、空想上で敵認定していた相手に直接コミュニケーション取ることが可能になり、炎上やヘイトなどが巻き起こっています。


ネットワークで繋がった人達が否定神学システムで連帯し暴走している状態を、東浩紀さんは否定神学マルチチュードと呼んで批判している(と理解しています)。


また、それに伴って自分の中の否定神学システムが外部から攻撃される機会がとても増えました。SNS上ではささいなことに対しても「反差別」を訴える様子をたくさん目にします。否定神学システムは僕たちのアイデンティティを形成するものであるため、これが直接攻撃されて機能不全に陥ると問題が起こります。たとえばより過激な排外思想に傾倒したり、たとえば世捨て人になったり。これはテロリズムにつながるものです。


ということであればインターネットをめぐる諸問題の原因はわりとはっきりしていて、連帯により否定神学システムが暴走することや、逆に否定神学システムが攻撃にさらされることが問題であり、それらが起こる原因はインターネットを経由することでコミュニケーションコストが低くなりすぎていることです。



前回書いた「説得のコミュニケーション」というのは、もっとちゃんとコミュニケーションにコストを支払った方がいいんじゃないかなという話です。あずまんの「郵便的マルチチュード」や、宇野さんの「遅いインターネット」というのもきっとざっくり言うと同じような方向なんじゃないかな?と思います。昨日の続きでいうなら、「いいね」を押すだけのコミュニケーションや、一言言い放って去っていくコミュニケーション、そのようなあまりにも簡単なコミュニケーションをなくしていくべきではないかと思います。

説得のコミュニケーション

今日も心穏やかに罵り合いのインターネットを眺めて過ごしているのですが、最近はなんとなくこの罵り合いの構造の輪郭が見えてきたような気がしないでもないです。以前からSNSの「いいね」システムに問題があるんじゃないかとぼんやり思っていたのですが、その理由が少し説明出来るようになってきました。


「いいね」システムがあるSNSでは、発信に対する定量的な評価基準が「いいね数」になります。その場合、あらゆる発言は「いいね」をくれる人に向けて行うのが最も合理的な判断ということになります。つまり、SNSというのは「いいねをくれる人=意見が近い人」に向けて発信を行わせる強制力を持った場であると考えられます。


そんなSNSという場の中で自分達とは違う意見に出会った場合、人はどう振る舞うのか。言い換えればどう振る舞えば「いいね」がたくさんもらえるのか。それは簡単で、仲間たちに向けて「あいつは間違ってる」という事なのです。


僕は坂上さん好きなのでこんなことに出して申し訳ないのですがパッと思いつくのがこれなので。


「平沢氏には失望した。」
LGBTの権利は大切だよと訴えたいとして、平沢さん(およびその支持者)がこのツイートを見たとしてももうこの書き出しだけで話を聞く気は一切なくなるのは明白です。人に話を聞いてもらうには、それなりの礼儀とか大切ですよ。じゃあなぜこんなツイートになるのか。それは仲間に向けて発信しているからです。LGBTの権利を制限したい人達をなんとかしたいのに彼らのことなんか二の次で、もうとっくにそんなことは分かっている仲間たちに向けて発信しているのです。


また、ツイッターだとクソリプのように仲間ではなく相手に直接意見を言ってることもありますが、けっきょくあれも凸とよばれる内向きのパフォーマンスで、最終的には「ブロックされたwww」とかいって「いいねいいね」みたいな話なのです。これは明らかにディスコミュニケーションです。このようなディスコミュニケーションの積み重ねでクラスター間の分断とクラスター内の団結が高まっていき、罵り合いのインターネットが出来上がってると思っています。

※ちなみに僕の観測ではクソリプには「外部に対するクソリプ」と「内部の人が期待する行動を取らなかった時のクソリプ」の2種類があり、凸は前者。後者ははじめのうちは対話形式だが、炎上が可視化されていくにつれてただのクソリプだらけになる。


この状況はツイッター社やはてな社などプラットフォーム側からしか止めることは出来ないと思います。だってそういう風に出来ているのだから、ユーザーには抗えない。


ではどういうプラットフォームにすればいいか。キーワードは「説得」だと最近は思ってます。「LGBTの権利を制限しようとしている人達をなんとかしたい」のであれば「LGBTの権利を制限しようとしている人達」を説得する方向で発信するべきで、その強制力をプラットフォーム側でなんとか設計出来ないものなぁって思います。説得する、相手とコミュニケーションをとろうとするってやっぱり大切で、罵るなんてもってのほかで、失礼があってはいけないし、相手の話も聞いてあげないといけない。


そんな感じでクソリプ進化バージョンみたいなのを設計する必要があるのではないかと思うわけです。それもただ機能として用意するだけではダメで、それを使うと女の子にモテモテにならざるを得ないくらいの強い強制力が求められます。技術的には大したことはないはずなので何かアイデアがあればですね。


ちょっとあまりよく分かってないのですが、宇野さんの「遅いインターネット計画」なんかは上述したようなもの重なるところがあるのかもしれません。


今日はもう遅いので、おやすみなさい。

モダンとポストモダンの狭間でゆらぐもの

我々のネットワークは「匿名性」をいじることで振る舞いをコントロール出来るのではないか。ということを実家で過ごすお正月があまりにも暇すぎて考えていました。