文系脳の必要性

理系学問は再現性のある物事を扱う。ある事象の結果として一意に何が起こるかを考える。あるいはその再現性を利用して製品を作り出す。


どうも最近ではミクロな世界の運動は確率に支配されていて一意ではないということになっているらしいが、まあそんなことを考えているのは一部の物理オタクたちで、生活実感としてはニュートン古典力学のような決定論的世界観で物事を考えている。


ミクロな世界ではラジカルな運動が起こっていても、マクロになれば確率が収束するので物事は一意に定まっていると考えて不都合はないだろう。僕が壁にもたれかかった時に、壁をすり抜けて隣の部屋に行っちゃうなんてことは確率としてはゼロではないが起こらないのである。



ところで話は飛ぶけど、サッカーの試合についてより詳細に予測を出来るのは文系知か理系知かということを一昨日くらいから考えている。これはおそらく文系知が勝るだろうと思う。そしてそれこそが文系の存在価値のはずだと思う。


先も述べたようにこの世界は前提条件から結果を計算可能な決定論的世界であると考えて問題ないだろう。それならばサッカーの試合だって理系が数学を解けば正確に予測出来るはずだが、現実にはそうではない。


カオス理論というものがある。

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有名なのはバタフライ効果だろう。ブラジルの蝶々の羽ばたきがアメリカでハリケーンを起こし得るというものだ。そのくらいこの世界の事象は複雑に絡み合っていて、一見無関係な事象同士が大きな影響を与える合う可能性がある。そのため、結果を計算をするための初期条件の数が発散してしまい、たとえそれが計算可能な決定論的事象の積み重ねだとしても事実上計算不可能になる。


サッカーの試合結果は決定論的に試合前に確定していると考えられる。しかしサッカーの試合結果を計算するには様々な運動の組み合わせとして考えなければならない。


プレイヤー22人の身体能力、体調、ポジショニングの微妙な違い、あるいは審判の判断も重要だ。天候も試合結果を左右するだろうし、もしかしたら途中で犬が乱入してくるかもしれない。


このような複雑系を理系知で扱うことは難しい。理系は再現性のある事象を扱うが、サッカーの試合は複雑すぎて再現性が得られない。


大雑把にいうと、再現性があるということは単純な事象であるということで、再現性がないということは複雑な事象であるということだ。


さて文系知は一般的に再現性のないことを扱う。歴史を扱うといってもいいだろう。あの人が何を話たとか、あの時何が起きたかとか、そういう歴史上一度だけ起こった事象を調べて解釈・抽象化・一般化するのが文系知である。


つまり文系知というのは物事の複雑さを扱う学問なのだ。


最近は色々と文系がバカにされることが多いご時世である。文学部廃止論も根強い。あの時誰が何を言ったとか、何が起こったかとか、そんなの役に立たないのだから不要であると。まあそれらの批判は多くの場合、文系知のもつ複雑さを理解出来ていないだけだろう。


しかし現にそのような批判が起こっているということは、複雑に考えるということを教育出来ていないとは言える。あるいは文系学問もまた単純なパターン化をしてしまい、研究者が文系学問の複雑さを意識していないということもあるのかもしれない。


最近のネット世論SNSなど理系の作ったプラットフォーム上で単純に考えることを指向している。不倫はダメで、タバコはダメで、安倍はダメで、選挙にいくのは良いことらしい。


単純に考えるということは多くの前提条件を省いているということだ。そんな都合よく前提を省略してしまっていいわけがない。物事の周りにどんな力が働いていたのかを考えなければいけない。それが物事の複雑さを考えるということであり、文系が果たす役割だと思う。