ツイッターについて
本当はツイッターを今すぐにやめた方がいいのだけれど、なかなか踏ん切りがつかない。
自分で言うのもアレなんだけど、僕は対面での話し相手としてはけっこう面白いのではないかと思う。人を評価してくる人と話すのは非常に苦手なのだけど、そうでなければわりと誰とでも話せる。
ところが困ったことに、僕が会話する時はツイッターに書いたことを思い出しながら話ていることが多い。何かの話題について一度ツイートするというのは記憶の定着にはかなり貢献するようだ。
ツイッターに書いた事を思い出し、それをもう1段メタな視点から捉えなおす。わりとラジカルな僕のアカウントのツイートを第三者視点で批評するようなスタイルで、その場のTPOに合わせて会話する。
それが僕の会話スタイルの大きな部分を占めていて、このおかげで10代の子とも普通に話が合うし、40代の主婦の人とかとも普通に話が合う。
そんなわけでツイッターをやめることのデメリットも個人的にはあったりするのでなかなかやめれない。しかし明らかにやめた方がいい。ノリがせめぎ合う空間は見るに堪えないし、メンタルヘルス的にもよくないだろう。
ツイッターを本格的にダメだこれと思ったのは京アニ事件の時だったが、近頃はコロナウイルスが話題で、コロナウイルスに関するツイッターの感じも本当に嫌な感じだ。
片方では毎日コロナウイルスの話題をしている。その中でも強制派と封じ込め派というノリがあって、よく分からん罵り合いを毎日している。その一方では、コロナウイルスについて黙るノリがある。黙ってなんともないふりをしながら、コロナウイルスの話題をしているノリを冷ややかな目で見ている。
ずいぶん前から書き続けているけど、だいたいのことはどっちでもいいことなのだ。どっちのノリが上とか下とか、勝ちとか負けとかではなく、どっちでもいいのだ。
だけどツイッターというプラットフォームは「どっちでもいい」という複雑な結論を許容しない。利用者というよりはプラットフォームの問題である。
まあということで考えた結果、ツイッターは徹底的にメモとして使うことにした。あらゆるノリに関与しない個人的な公開メモだ。というか「つぶやき」という言葉通り、単に個人的なものが集合している状態が、面白かったころのツイッターだったと思う。
それとは別に、音楽用のアカウントを別に切り離そうと思う。今の時代SNSなしで音楽をやるイメージがつかないので、もうこれはしょうがない。ただそこも少し考えていて、そっちは天上から下界を見下ろすようなアカウントにしたい。これは東浩紀さんがよく言ってる演者と観客との間の距離感についての話を参考にする。ステージ上と客席とを明確に分けるのだ。
まあそんな感じでまだしばらくはツイッターを続ける。他にもっと良いメモアプリがあればいいのだけれど。
好きなユーチューバー1
近頃はほんとユーチューブをよく見ているので、なんとなく好きなユーチューバーさんをつらつらと。
こうちゃがーでん
もともとアクア系のユーチューバーとして見始めたユーチューバーさん。最近はアクア動画よりもモルモットにバイクに釣りにと色々と動画にしている。
こうちゃさんのしゃべり方がとても好きでどの動画も観ているとなんだか落ち着く。でもそれだけでなく、部屋の中でモルモットたくさん飼ってたり水槽たくさん置いてたりでやってることがすごい。
アクアリウムって水槽立ち上げとかしない限りはほとんど動画ネタがないので、面白いアクア系ユーチューバーがいてもだいたい1年たたずに動画投稿頻度ががくっと下がるのだけど、こうちゃさんは長い事続けていてうれしい。
最近の動画だと、釣ってきたハゼを飼い始めるのがよかった。
モルモットも超かわいい。
ゆめラジオ
ユーチューブにはメンタリストDaiGoとか教育系ユーチューバーたくさんいるけど、一番信頼しているのはゆめラジオさん。
哲学・社会・歴史を中心にしたチャンネルだが、特に哲学の厚みがすごい。このチャンネルにはノブレスオブリージュという言葉が似合うというか、これが無償で聴き放題なのだからインターネットというのはすごいものだ。
ゆめラジオさんの特に好きなところは型にハマっていないところで、哲学/人文知をやってる人はだいたいセットでリベラルであり反安倍とか自由が大事とか言ってるという人が多いのだけれど、ゆめラジオさんはそうではなくナショナリズムが大事だという。つまり、ネットだとリベラルからいわゆるネトウヨと言われるような思想を持っている。
でも思想史にめっちゃ詳しい。こういう人は珍しい。
好きな動画を選ぶのは難しいけど、最近のだと「人は言語なしで思考できるか?」という動画はとてもよかった。「言語なしの思考とはどういうものかをいつも考えてるけどなかなか答えが出ない」と言っていて、僕は感動してしまった。即物的な今の時代はそんなことを考えていてもお金にはならないし誰も評価してくれない。それでも、そういうことを考えてる人がここにいるというのは、感動的なことだ。
香川県のネット・ゲーム依存症対策条例について
どうも本当に成立してしまうような流れになっているようだ。
正直なところ、ゲームをやるやらないはどっちでもいい話だろう。ゲームをたくさんやった人にはその人なりの人生があり、ゲームをやらなかった人にはその人なりの人生がある。
この条例はゲーム時間を制限するルールを作りましょうという話なのだが、この条例に賛成している親御さんには懸念がある。きっと条例施行後に家庭内でルールを作る際に「条例だから」というワードが飛び出しまくるんだろう。
ゲームを制限されるというのはゲームが好きな子供にとってはとても理不尽なことだ。その子供が感じる理不尽さに対して説得することなしに「条例だから」という一方的な権力でごり押しすると、子供からの信頼を失う。それは親側で見れば自業自得ともいえるが、親を信頼出来ないというのは子供にとってとても不幸なことだ。
この条例に賛成している親御さんがいたら、こんな条例が出来る前に、今日にでも家庭内でゲーム時間を規制する自分と子供との間だけのルールを話し合って作るのがいいのではないだろうか。
反対している親御さんはガン無視でいいだろうし、どっちでもいい親御さんは子供にまかせておけばいい。
セックス
ちかごろ性欲について考える。
まあこれは個人的な考えで多様な性の形態のような話も完全に無視するが、男性の性欲というのは女性の身体を支配するというところに根差していて、逆に女性の性欲は男性に身体を支配されるところに根差しているんじゃないかと思う。
だから自然状態においておくと、両者の思惑の結果、男性が支配しやすいように女性側にどんどん制約が課されていく。ざっくばらんに言えば、女性側に何らかの制約が課されているという状態はエロい。
もちろん人には性欲以外の価値観があって、近年その存在感はどんどん大きくなってきて、女性側の制約をなくしていこうという運動が盛んになってきている。しかし一方ではたしかに性欲が存在している。
これはとても二重人格的であり、昨今のオタクフェミ論争のような混乱の元になっているだろう。
僕はオタクフェミ論争についてはどちらも言ってることが理解出来る。オタク側の表現の自由的な話も分かる。しかし一方で、フェミがオタク的女性表象に対して怒るのも分かる。それは上記の通り、エロと女性の社会的制約というのは直結しているからだ。そしてある意味では、オタク的二次元の女の子というのは女性に対してあらゆる反抗をゆるさない究極の制約を課した状態であるといえるからだ。またその一方で、エロくありたいという女性たちがいるのもまた必然である。
東のエデン
山と山との間を流れる川が侵食して出来た小さな平地が僕の町だった。空は小さく、東西南北どこを見渡しても視線はすぐに山で遮断される。
町の外とは物理的に遮断されていて、川の崖沿いに敷かれた一本の道か、トンネルを何個も通り抜けなければならない電車だけが町の内と外とを繋いでいる。(これらの通路がたまに土砂崩れなどで破壊されると大変なことになる。)
僕は小学生の高学年のころには山の向こう側に強い憧れを持つようになる。特に東の山の向こう側だ。東の山の向こう側には、文字通り東の都、東京があるのだ。だからか僕はだんだんと町の東側で遊ぶことが多くなったし、東の山に登ってみたりもした。
高校生までの18年間、僕はこの山で囲まれた町で過ごした。
大学進学とともに、僕はようやくこの町から出ることになった。新しい町は大都市とはいえないけど小さくもないという地方都市で、大学の間はそこで暮らした。
それはもう全く違う世界だった。家の近くに24時間営業のコンビニがあり(山の中のコンビニは22時に閉まっていた)、ガストがあり、マクドナルドがあった。今でも豊かな町というと、24時間営業のジャンクなお店たちを思い浮かべるのはこの時の感動が大きい。僕にとっての自由の象徴なのだ。
新しい町で暮らすと同時に、今に至る長い一人暮らしが始まった。それまで僕はとにかくテレビゲームを思う存分やりたかったが、いざ膨大な時間が出来てみるとゲームはそれほどやらなかった。それよりもインターネット上の個人サイトや2ちゃんねるなどに興味が移り、ネットをしている時間が一番長いという、これまた今に至る生活が始まった。
そんな大学生活は色々あったが総じて楽しかった。
そんな大学生活が卒業間近になっても就職活動はしなかった。この頃は就職氷河期だとか言って新卒の行く末を憂う話も多かったと思うが全く興味がなく、近くの家電量販店とかでレジとかやって平穏に暮らせばいいやと思ってた。
そんな感じで全く就職活動をしなかったら研究室の教授がマジギレしてしまった。しかたなく大学で求人を探すと、情報系の学部だったので中規模SIerの求人があった。ちゃんと就職活動してましたよというアリバイを作るために受けてみたのだが、なんと内定が出てしまった。
そのSIerは全国の主要都市に支社があり、僕は愛知県で働くことになった。
当然のことながら愛知になんて知り合いも一人もいないので、ここで生まれて初めて孤独の味を味わった。とにかく遊ぶ人がいないので、毎日深夜まであてもなくドライブをしていた。
といいつつ孤独を噛み締めていたのもわずかな間で、ちょうどそのころニコニコ動画が始まったり、先輩にFF11に誘われてやってみたり、先輩に大量のアニメのDVDを借りてみたりしているうちに、すっかりネットの住人になってしまい、孤独を感じることもなくなった。
もともと超適当に働き始めたわりには仕事は順調で、入社3年目くらいにはチームリーダーのようなポジションになった。
でも家に帰ったらひたすらインターネットをしていて、インターネット愛してるという状態にまで極まってしまった僕は、SIerを辞めてWeb系で働こうと思った。そのころ東日本大震災が起こり、日本社会の混乱の中でいよいよインターネットが新しい社会を作るという機運も高まっていた。
とりあえず会社を辞めてニートになった。送別会の挨拶で「次はどうするんですか?」と聞かれて「ニートになります」と答えたらけっこうウケた。
ニートになってからというものずっとFF11をやっていた。寝るか、コンビニに行くか、あとはFF11をやっていた。
半年ほどFF11をやってコンテンツをやりつくしたので働くことにした。SIerでの働き方はサラリーマン的でストレスフルだったので、就職するのは「Web系/小さな会社/スーツ着ない/東京」という条件で探すことにした。ここでも条件を満たす会社を適当に受けたら内定をもらったので、今も働いている会社に就職することになった。
そんなわけで東京での暮らしが始まった。僕にとっては4つ目の町が東京になった。東京での仕事も順調だった。いくつかの大きなWebサービスに携わることが出来たし、職場環境も目的としてたWeb系のやつそのものだった。
そんなある日ふと、小学校の頃に東の山の向こう側にある東京に憧れていたことを思い出した。当時はすでに色々なWebサービスが生まれていて、その中にGoogle Mapという地図のサービスがあった。
そこでGoogle Mapであの町の東の山の向こう側をみてみた。そこには今ようやくたどり着いた大都会東京があるはずだった。
東の山の向こう側にあったのはまかいの牧場だった。
初期ラルクアンシエルの映像をYoutubeで探してみた
Sometime Before I
Kenちゃん加入前のラルク。当時ギタリストのhiro脱退とともにhiro曲は封印されてるので、知らない曲が多い。www.youtube.com
Sometime Before II
Kenちゃん加入後。DUNEリリース半年前。www.youtube.com
SONIC GIG
Sakura加入後。DUNEリリース直前。www.youtube.com
L'Arc~en~Ciel - CLOSE BY DUNE
DUNEツアー①。White Feathersの前段階のものをやってるのが面白い。www.youtube.com
L'Arc~en~Ciel - FEEL OF DUNE
DUNEツアー②。www.youtube.com
ノスタルジーの予感
メジャーデビュー直前。White FeathersのPV的なやつ。www.youtube.com
L'Arc~en~Ciel - In The Air Tour Sense of Time '94
メジャーデビュー後。Tierraツアー。www.youtube.com
L'Arc~en~Ciel In Club '95
www.youtube.comL'Arc~en~Ciel The other side of heavenly '95
Heavenlyツアー。www.youtube.com
L'arc-en-ciel Heavenly ~films~
Heavenlyツアーfinal 日本武道館を中心にした映像集。www.youtube.com
L'Arc en Ciel - Carnival of True eve
Trueツアー。www.youtube.com
the Zombies
復活直前の活動映像集。www.youtube.com
L'Arc〜en〜Ciel 1997 REINCARNATION
Yukihiro加入。復活ライブ。www.youtube.com
新型コロナウイルス所感
時は西暦2020年春、新型コロナウイルスCOVID-19が話題だ。ウイルスに関連する情報もなかなか錯綜していて、大したことないという向きもあれば、まじでやばいという向きもある。
簡単にまとめると以下のような感じだろうか。
楽観的な見方
- 東京ではそこまで感染拡大はしない。せいぜいインフルエンザ程度の感染力で、そのうち暖かくなって収束する。
- 毒性が比較的低い。死亡率が数%。検査コストの高さから潜在的な感染者がかなりいることも考えれば、致死率はもっと低いと予想される。
- ウイルスそのものよりも、それによる中国人への差別的発言などの方が遥かに問題。
悲観的な見方
- すでに首都圏ではかなり感染が広がっていて、現在は潜伏期で2月末あたりに一気に顕在化する。最終的に6割程度の人が感染する。
- ウイルスの作用に未知の部分が多く、毒性についての噂が錯綜中。特に「ウイルスが免疫系を破壊する→再感染し、その際には症状が重篤化する」のあたりは本当ならやばいが。
- 死者5000万人超のスペイン風邪に匹敵する被害になる。
ざっとみてる感じだとこんな感じだろうか。特に「再感染」のあたりの話が本当だとすると、なかなかガチでやばい可能性もある。
まあいずれにしてもウイルスのこともよく分からないし、僕たちに出来ることと言ったら手洗いをしっかりするとか顔を触らないとかなるべく人ごみに行かないとか、そういうことしかない。そして風邪の症状が出たら外出しないというのが重要なことだとは思うが、おそらく政府側からそのような勧告が出ないと、自主規制は出来ないのかなと思う。
伝染病といえば昔は地方病というのがあった。山梨の甲府盆地あたりで流行した人がばったばったと死んでいく病。早い段階で、農作業をすると感染するというのが分かっていたにも関わらず、農民たちは引っ越すどころか農作業をやめることも出来なかった。
今回の新型コロナウイルスも人ごみに行かないことが最大の予防になるのだけれど、わかっていても仕事で都心に行かないというのは難しい。現代でも地方病と同じことになるのだろうか。
藤沢さんの以下のツイートは、このSNS時代の1つの問題点をなかなかついている。
日本は原発事故で(少なくとも高学歴層は)ほとんどのマスコミの危険を煽る報道はデマだったし、海外の政府の反応もただ過剰だった、実際は大したことなかった、と過学習してしまっていて、今回の新型コロナウイルス禍を過小評価してしまったのかもしれんね。
— Kazuki Fujisawa (@kazu_fujisawa) 2020年2月14日
「過学習」というキーワードを持ち出してくるのは藤沢さんのインフルエンサー的なセンスの良さだろうか。
東日本大震災から始まった日本のSNS時代は、厄災に対する注意喚起祭りとして始まった。たしかに地震と津波は未曽有の大災害だった。しかし以降の原発問題から続いたSNS上での様々な注意喚起は結果的にはかなりスベっていた。大多数の「私」に直接影響する未曾有の大災害や政治的な大問題などはそんな簡単には起こらないからだ。
原発問題以降の9年間を教師データとするならば、あらゆる問題を自分とは関係のない大したことのない問題として処理するのが、未来予測としては一番打率が高くなるという局所最適に陥り、問題を過小評価する。津波の教訓は最悪の事態を想定しようというものだったはずだが、それは10年経ってかなり薄れてきた。
たしかにこれはここ数年のSNSに対して薄々感じていたことではある。といってもまあ、逆に毎回毎回デマとか差別的発言とか大発生というのもたしかに問題なのかもしれないし、このバランスをとるというのはなかなか難しいことだ。まあでもせっかくこんな時だし、体調が悪かったら出勤しないくらいはしてもいいのではと思う。
このウイルスについて、うちの両親は田舎暮らしだからまあ大丈夫かなと思うけど、都心にいる僕や知人たちはどうなるかな。まあなんとなく致死率とか見てる限りは20代~40代くらいの大人ならちゃんと静養すれば大丈夫っしょという感じでいたが、再感染の話次第かなあ。