ウェブはバカと暇人のもの

今読みたい古典。


この本が出版されて以降の世界、「炎上」など、ネットにいる暇人が大挙する事でリアル社会に与える悪影響はここ10年よく取り沙汰されており、実社会へのその影響力は徐々に大きくなってきた。


今回のコロナ禍では、ネットはもはや社会へ悪影響をばら撒くだけのものになっているように見える。


この規模で(2ch的な意味での)「祭り」をしていてはまずい。


ここにいるのはただの暇な人たちである。「だがそれがいい」のであるが、さりとてそれ以上でもそれ以下でもない。

新型コロナウイルスについての所感3

つらつらと。


新規感染者数とかについて

自粛の効果のおかげか新型コロナウイルスは感染者数の爆発的増加には至っていない。東京都は相変わらず高い陽性率を保っているが、お近くの埼玉県では効果があがっていて特に発症日ベースで見ると感染者数の増加は明らかにピークアウトしているという報告もある。


ところで、最も重要なのは医療リソースが足りるかどうかで、感染者数というのはその因子にすぎず、日によってばらつきもあるので一喜一憂しないのがいいだろう。


4月下旬で死亡者数が指数関数的な増加を始めるのかは不謹慎ではあるが注目してしまうポイントだろう。BCG仮説などの通り何か見えない力で死亡者数が抑制されるようなら、日本人としてはずいぶん安心であるが、僕としては懐疑的である。



政府からの給付金について

30万円配るとか、いや10万円配るとかが話題だが、そもそも一律の給付金は目的が不明である。経済的な影響が直撃している人にとっては10万円では今月の生活費にもならないし、消費喚起という点では、いま打撃を受けている業界は消費者にお金がないから消費に回らないのではなく、ウイルス回避のために消費を避けているのだ。そこに対してお金を配るというのは、「金を使うな」という命令と「金を使え」という命令を同時に出しているようなもので矛盾している。


そのお金はこれから激増が予想される生活保護や失業保険の財源にまわすのがいいだろう。まあもっとも、日本では「財源」という概念自体がずいぶん捻じ曲がっているので、多くの人がお金なんてその気になれば無限に生み出せると思っていそうではある。実際そうなのかもれいないし、そうじゃないのかもしれない。


ウィズコロナ

収束しない世界で新しい社会の形を目指すというのは魅力的な提案だが、現実ではウィズコロナの世界はとても厳しい。

mainichi.jp


これは本当に信じられない事件である。


国内ですら地域差別が起こっているのだから、外国人には本当に厳しい世界になるだろう。ウィズコロナとは観光客不在の世界である。そして観光客というのは世界平和の象徴である。観光客とお金と商品とが世界中を血液のように循環するグローバリゼーションの世界では大きな戦争は起きないだろうと思っていたが、それがどういう動きになっていくのだろうか。僕がオリンピックに基本的に賛成なのは多くの観光客の循環を生み出すからだが、2021だか2022だかにオリンピックが開催出来るかはかなり難しい状況ではある。


差別の観点でもう一つ大きな気がかりは、感染済みの人と未感染の人とで社会的な立場が大きく変わるという懸念だ。感染済みの人には自由に移動する許可を与えて経済を回してもらおうなんていう話もちらほら目にするが、そんなことはとても許されない差別であり、もし実施されたら特に若者は我先に感染したがるだろう。


まあ、とりあえず夏になったら全部解決するというワンチャンねらっていこ。


ウィズコロナで人々が日陰で暮らす陰鬱な世界になるのならそれはそれで面白そうではあるのだが、実際にウィズコロナで失われるのはこの社会の日陰の部分であり、移動の自由が制限され人々が道徳と規範とに支配された、より明るい昼の世界になりそうだ。


一番忘れがちで最も重要なことは、新コロちゃんに全員が感染したとしても(少なくとも若年層は)圧倒的に多くの人が生き残るという現実だ。

新型コロナウイルスについての所感2

世界は新型コロナウイルス一色な感じになっている。


新コロちゃんとは長い付き合いになるかもしれない。家の外にあるものなにもかもを危険とするのではなく、何をすると危険なのかを整理して、持続可能なライフスタイルにしていくのがいい。数が足りていないマスクも、なぜマスクに効果があるのかを整理して、効率的に使っていきたい。


この数か月の報道を総合して考えると、危険なのは「会話・接触・間接的接触・食事・三密空間」。僕はもともとちょっと潔癖なのもあって、新コロちゃんが話題になってからのここ2カ月くらい、これらをなるべく避けるようにしているが特段大きな不自由はない。これらを避けながら外食に行くことだってできるし、美術館に行くことだって出来る。行けなくなるところも多くあるが、それらは市場原理の一環だと思って諦める。


会話

特に知らない人との会話があらゆる意味でリスクがある。が、発症してない人からこの経路で感染することは少なそう。風邪でゴホゴホ言ってる人との会話を避ける(相手がマスクをしているならリスクは大きく下がる)。さらにリスクを下げるためにマスクをするとベター(効果は気持ち程度だろうが)。

接触

ここは日本人なら特に意識しなくてもよさそう。家族やパートナーとの接触はある程度いいのでは。会話もそうだけど、知らない人との接触ほどリスクが高いと考える。風俗とか行くとやばい。

間接的接触

ここがおそらく最も危険。なるべく物に触れるのを控える。ちょっと信じられないが、咳を抑えた手でそのままドアノブを触るなんてことは日常茶飯事に行われている。顔を触らない、こまめに手洗いをする。マスクも効果がありそう。特に物体に付着したウイルスは一日~数日程度は存在する可能性があるので、家の中をグリーンゾーンにするために帰宅時にはまず手を洗う。

食事

これもやばい。外出時にサンドイッチやおにぎりなど素手で食事するのは避けたい。大皿料理に直箸という食事スタイルは徹底して避けるべき。外食ならば、料理が多数の人にさらされているような屋台形式や、ビュッフェ形式を避ける。飲食店の店員がマスクをしているお店に行きたい。知らない人とや大人数での食事も避ける。

三密空間

「密閉」「密集」「密接」の三密空間は基本的には上記の要素での感染が起こる可能性が高いので避ける。これに加えて閉鎖空間でのエアロゾル感染が起こっているのかは不明だが、とにかくやばいのは会話・接触・食事である。だからエアロゾル感染への危機意識を煽るあまりに「よく換気をしましょう」と言い、それが逆に作用して「換気すれば予防出来る」という間違った認識が生まれていそう(宮藤官九郎のケース)。やばいのは会話・接触・食事である。



上記に加えて、ゼロリスクは考えず、ある程度は自分が感染することを織り込み済みにする。そして重症化させないことを考える。長時間の強い運動、ストレス、睡眠不足、栄養不足、体を冷やす、といったものは避ける。少しでも風邪の症状があればあらゆる予定をキャンセルして寝ることだけを考える。風邪をこじらせなければ大したことはない。

監獄の誕生

監獄の誕生(監視と処罰)という本がある。人文系の人には有名な本なのだろうけど、20世紀を代表する哲学書のようだ。

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰


18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでパノプティコン型刑務所という新しいスタイルの監獄が生まれ、権力の構造が変化したという話。

ja.wikipedia.org


簡単に書くと以下のような条件を満たすような構造の刑務所のこと。

  • 受刑者は独房に監禁される。
  • 少数の監視者で全独房を素早く監視出来る。
  • 受刑者側からは監視者の姿が見えない。


これが考案された18世紀当時は、これを満たすようなものを作ろうとするとかなり大がかりなものになっただっただろうが、テクノロジーが発展した現代には監視カメラがあり実装するのは簡単だ。(ただし日本で本当にこの刑務所を実装すると人権侵害になるようだ)


パノプティコンの発想としては、上記の条件を満たす刑務所に受刑者を監禁すると、受刑者はいつ何時監視されているのか分からないので、「監視されているかもしれない」という思い込みによって規範的な行動を取るようになる。極端な話、監視者はいなくてもよくなる。監視者は受刑者の心の中に勝手に存在しているのである。


これだけだと刑務所の中の仕組みなんて知らんがなとも思うけど、刑務所というのは要するに権力(規範)に従わない者を従わせるための装置である。もっと昔は公開処刑など残酷な処罰を見せびらかすことでそれを達成していた。パノプティコンという哲学は、常に監視をされていると思い込ませることにより人を規範に従わすことが出来るというものだ。


このように監視というのは権力と密接に関わっている。そしてこのやり方は絶対的な権力者が不在の民主主義とものすごく相性がいい。なぜならば、監視さえ機能していれば権力者そのものは不要だからである。監視される人の心の中に勝手に権力者が生まれるのである。


21世紀になり監視社会は問題だという声も聞くが、全体としては「超」監視社会に向かっている。もはやだれもが常にビデオカメラを持ち歩いているし、ある程度の都市ならいたるところに監視カメラがあるし、車にもビデオカメラを装着するのが主流だ。そして人々の生活の一部分がインターネット上(SNS)に移行したことにより、監視カメラの映像を共有することは簡単になったし、ライフログを追うことも簡単に出来る。


これは昔の絶対的な権力者が、残酷な処罰を以て人々の行動を制限していた時代と変わらない。むしろ、監視カメラが至る所にあり、誰もが心の中に権力者を飼っている現代社会は、自制という形でより行動を制限された状態といえる。

ニコニコ動画とボカロ曲のラウドネス問題

今年に入ってニコニコ動画ラウドネスが実装された。

ch.nicovideo.jp


今週になってスマホアプリでもラウドネスが実装され、ラウドネス対応は完了したようだ。(スマホWebは未確認。)

blog.nicovideo.jp



ラウドネス機能というのは、再生プレイヤーが音量を自動で調整する機能のこと。Youtubeは何年も前に実装済みで、音楽配信Spotifyなどもラウドネスが実装されている。この機能があることによって、動画ごとでまちまちになっている音量が自動調整されるため、視聴者がいちいちボリュームを調整する負担が減り快適な視聴を行うことが出来る。


なのだが、再生プレイヤーが勝手に音量を操作してしまうというのはデメリットにもなる。ニコニコ動画の場合はこのデメリットをボカロ曲が被りそうだ。


長年ニコニコ動画にはラウドネスはなかったので、ボカロ曲の投稿者は音量に関してはCD品質でアップロードしていた。ニコニコ動画に投稿されているボカロ曲はCDで聴くのと同じ音の大きさに聴こえるように音量が調整されている。この調整する作業のことをマスタリングという。


ここで厄介になるのが、人が感じる音の大きさと、曲データ上の音の大きさとは必ずしも一致していないことである。

  • 10デシベルの音量で、ボーカルの歌だけが再生されるデータ
  • 10デシベルの音量で、ボーカルギターベースドラムのバンドサウンドが再生されるデータ


例えばこのようなケースだと、同じ10デシベルでも前者の方が音が大きく聴こえる。前者は歌だけが10デシベルで鳴っているのに対し、後者は4パートが鳴っているので、歌自体の音量はたとえば10デシベルのうちの2デシベルとか3デシベルとかになる。そうすると歌の音量感が半分以下になるので、後者の方が音が小さいと感じるのだ。


マスタリングという工程では、このような「人が感じる音の大きさ」という曖昧なパラメータを調整する。ニコニコ動画にアップロードされているボカロ曲は、CDと同じ大きさに聴こえるようにマスタリングされている。つまり、どの曲を聴いても再生プレイヤーの音量が一定であればだいたい同じ大きさに聴こえるようになっていたのだ。


しかしラウドネスという機能は再生プレイヤーの音量を動画ごとに自動で変えてしまう。この時、ラウドネスの基準となる音量値と、人が感じる音量感とが、まだまだ一致していないところに問題がある。ボカロ曲はマスタリングという工程でもともと音量感が揃えられているにも関わらず、ラウドネスはその独自の基準で動画ごとに再生プレイヤーの音量を変えてしまうのだ。


ラウドネスが有効になっている場合、歌や楽器のパート数が少なく静かめの曲調のボカロ曲の音量がやけに大きく再生されてしまうということになるかもしれない。逆にPerfumeみたいに常に大きな音量で鳴っているような曲はやけに小さく再生される。これはボカロ曲を連続再生している場合などにはかなり不快な事態である。


この問題を回避するために、ニコニコ動画の再生プレイヤーでは視聴者がラウドネスを無効にすることが出来る。無効にすれば、これまでと同様にボカロ曲を聴くことが出来る。しかしこの場合、ラウドネスを有効にしている視聴者と無効にしている視聴者という2パターンの視聴者が生まれてしまう。


今後ラウドネスが有効となっているのが前提であれば、ボカロPたちはラウドネスがかかった時に一番良く聴こえるようにマスタリングをするので、この先アップロードされていくボカロ曲の音量感は安定してくだろう。ところがラウドネスは無効にすることができ、しかも上記のような理由から、ボカロリスナーにはラウドネスを無効にするインセンティブが働いていると考えられる。


このため、これまで通りCD基準でマスタリングした音源と、ラウドネス基準でマスタリングした音源と、どちらにするのかボカロPによってマチマチな状態でボカロ曲が投稿されていくと考えられる。(悪いことに、両者は仕上がりの音量が大きく違う)


最も悪い予測は、ラウドネスの存在に気付かないボカロリスナーが、ラウドネスにより不安定な音量になったボカロ曲を視聴して、ボカロ曲の音質悪くなったと感じることである。


みんなどうするんだろうか。僕は面白そうだからラウドネス前提でやっていこうかなあとも思うけど、さてはて。

ツイッターについて

本当はツイッターを今すぐにやめた方がいいのだけれど、なかなか踏ん切りがつかない。


自分で言うのもアレなんだけど、僕は対面での話し相手としてはけっこう面白いのではないかと思う。人を評価してくる人と話すのは非常に苦手なのだけど、そうでなければわりと誰とでも話せる。


ところが困ったことに、僕が会話する時はツイッターに書いたことを思い出しながら話ていることが多い。何かの話題について一度ツイートするというのは記憶の定着にはかなり貢献するようだ。


ツイッターに書いた事を思い出し、それをもう1段メタな視点から捉えなおす。わりとラジカルな僕のアカウントのツイートを第三者視点で批評するようなスタイルで、その場のTPOに合わせて会話する。


それが僕の会話スタイルの大きな部分を占めていて、このおかげで10代の子とも普通に話が合うし、40代の主婦の人とかとも普通に話が合う。


そんなわけでツイッターをやめることのデメリットも個人的にはあったりするのでなかなかやめれない。しかし明らかにやめた方がいい。ノリがせめぎ合う空間は見るに堪えないし、メンタルヘルス的にもよくないだろう。


ツイッターを本格的にダメだこれと思ったのは京アニ事件の時だったが、近頃はコロナウイルスが話題で、コロナウイルスに関するツイッターの感じも本当に嫌な感じだ。


片方では毎日コロナウイルスの話題をしている。その中でも強制派と封じ込め派というノリがあって、よく分からん罵り合いを毎日している。その一方では、コロナウイルスについて黙るノリがある。黙ってなんともないふりをしながら、コロナウイルスの話題をしているノリを冷ややかな目で見ている。


ずいぶん前から書き続けているけど、だいたいのことはどっちでもいいことなのだ。どっちのノリが上とか下とか、勝ちとか負けとかではなく、どっちでもいいのだ。


だけどツイッターというプラットフォームは「どっちでもいい」という複雑な結論を許容しない。利用者というよりはプラットフォームの問題である。



まあということで考えた結果、ツイッターは徹底的にメモとして使うことにした。あらゆるノリに関与しない個人的な公開メモだ。というか「つぶやき」という言葉通り、単に個人的なものが集合している状態が、面白かったころのツイッターだったと思う。


それとは別に、音楽用のアカウントを別に切り離そうと思う。今の時代SNSなしで音楽をやるイメージがつかないので、もうこれはしょうがない。ただそこも少し考えていて、そっちは天上から下界を見下ろすようなアカウントにしたい。これは東浩紀さんがよく言ってる演者と観客との間の距離感についての話を参考にする。ステージ上と客席とを明確に分けるのだ。


まあそんな感じでまだしばらくはツイッターを続ける。他にもっと良いメモアプリがあればいいのだけれど。

好きなユーチューバー1

近頃はほんとユーチューブをよく見ているので、なんとなく好きなユーチューバーさんをつらつらと。

こうちゃがーでん

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もともとアクア系のユーチューバーとして見始めたユーチューバーさん。最近はアクア動画よりもモルモットにバイクに釣りにと色々と動画にしている。


こうちゃさんのしゃべり方がとても好きでどの動画も観ているとなんだか落ち着く。でもそれだけでなく、部屋の中でモルモットたくさん飼ってたり水槽たくさん置いてたりでやってることがすごい。


アクアリウムって水槽立ち上げとかしない限りはほとんど動画ネタがないので、面白いアクア系ユーチューバーがいてもだいたい1年たたずに動画投稿頻度ががくっと下がるのだけど、こうちゃさんは長い事続けていてうれしい。


最近の動画だと、釣ってきたハゼを飼い始めるのがよかった。

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モルモットも超かわいい。

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ゆめラジオ

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ユーチューブにはメンタリストDaiGoとか教育系ユーチューバーたくさんいるけど、一番信頼しているのはゆめラジオさん。


哲学・社会・歴史を中心にしたチャンネルだが、特に哲学の厚みがすごい。このチャンネルにはノブレスオブリージュという言葉が似合うというか、これが無償で聴き放題なのだからインターネットというのはすごいものだ。


ゆめラジオさんの特に好きなところは型にハマっていないところで、哲学/人文知をやってる人はだいたいセットでリベラルであり反安倍とか自由が大事とか言ってるという人が多いのだけれど、ゆめラジオさんはそうではなくナショナリズムが大事だという。つまり、ネットだとリベラルからいわゆるネトウヨと言われるような思想を持っている。


でも思想史にめっちゃ詳しい。こういう人は珍しい。


好きな動画を選ぶのは難しいけど、最近のだと「人は言語なしで思考できるか?」という動画はとてもよかった。「言語なしの思考とはどういうものかをいつも考えてるけどなかなか答えが出ない」と言っていて、僕は感動してしまった。即物的な今の時代はそんなことを考えていてもお金にはならないし誰も評価してくれない。それでも、そういうことを考えてる人がここにいるというのは、感動的なことだ。

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