反出生主義批判

最近思うのは、いい人生かどうかというのには将来の可能性がいい方向にも悪い方向にも広がっているかどうかが重要。未来の可能性の広がりがあればそれは希望になって、それは精神的にも幸福感を感じる状態なのではないかと。


例えば子供を作るかどうかという可能性の広がりは、年齢とともに収束していく。この収束が起こると不安を覚える。子供を作った場合はその時点で子供の有無という可能性は収束する。作らなければ緩やかに収束していく。この収束はどちらも不安である。


しかし子供を作った場合、子供の成長という可能性の芽が生まれて、今度はそれが心を支えてくれる。子供を作らない場合、可能性の収束は緩やかなので猶予期間は長いが、収束しきってしまうまでの間に新しい可能性の芽を作っていないとしんどいことになる。難しいのは、子供の成長の代替となるような可能性の芽というものは手に入れられたり手に入れられなかったりすることだろう。


ところで人生というのは結局のところ最後は可能性が死という一点に収束する。闘病などの期間でそれは一気に収束していく。これが不幸だとすると人間皆不幸ということになる。でもそうではなくて人生の中に可能性がひらけていた時期があり、少しの時間でも可能性の広がりの中で生きることが出来たのであれば、それは生まれてきて良かったということではないだろうか。


元を辿れば、子供が生まれてきた時に、その子が将来どんな人になるのかが確定していない、そんな可能性の広がりの中で生まれてくることが出来たなら、それはいい人生なのだ。これは僕なりの反出生主義批判。