逃走の哲学

13年前にニコニコ動画が登場して、ネット上ではそれまでの社会とは明らかに違う視点から様々な議論が行われるようになった。


その中心的な話題だったのは「逃走」だ。社会に用意されているレールからは逃走してもいいのだ。そこで語られていた逃走のための理論を「逃走の哲学」と呼ぶことにする。


学校でいじめられているなら不登校になっていい。異性との人間関係に問題があるなら結婚しなくたっていい。働かなくてもいい。大人の言うことを聞かなくてもいい。不快ならば逃走すればいい。


マイノリティはマジョリティや規範に合わせて生きていく必要はなく、そこから逃走してもいい。そのための論理基盤が逃走の哲学だ。


これはとても正しい考え方だし、僕も当時の抑圧的な日本社会にあって新しかった逃走についての議論が本当に好きだった。このような考え方は僕だけでなくある種の多くの人々に喜んで受け入れられた。


しかしこれには問題があった。それは10年経って徐々に明らかになってきた。


その問題点とは、逃走の哲学は「逃走」のための哲学だということだ。人生や社会を構築するための哲学ではないのだ。


しかし今では逃走の哲学が指し示す価値観を使って社会を作り直そうという動きが活発になっている。そして様々なハラスメントの文脈が生まれている。


男性が女性を口説いたらセクハラ。独身成人に結婚を勧めたらマリハラ。上司が部下を叱ったらパワハラ。たしかに逃走の哲学のロジックからするとこれらの運動は一見正しいように見える。


しかしそうではない。「Aから逃走する」のと「Aに近寄らない」のとは、一見同じようで全く違う。「不快だったら帰っていい」と、「誰かが不快になる可能性がある事はやるべきではない」とでは全く違う。


今はこれがごっちゃまぜになって同一のものとして語られるようになっていると思う。そしてそれは間違っている。


逃走の哲学が与えたものはセーフティネットのようなものだ。どうしても辛くなったらそこから逃げ出しても死ぬことはない。そのための思想的な道具だ。しかしその場所はしょせん避難場所でしかない。そこに長くいるとどんどん孤立してしまう。一般的に孤立は不幸の最大の原因だ。


最近、千葉雅也さんの「動きすぎてはいけない」という言葉をよく思い浮かべる。あるいは「勉強の哲学」でも同じことを言っている。勉強してバカになって固定化されたノリから脱出するのが大切だ。しかし離れすぎてはいけない。ユーモアを手に入れてもう一度そこに戻るのだと。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために


「逃走の哲学」でも、おそらく逃走後に「もう一度もどる」ことがとても重要だ。ただし全く同じ場所に戻るのではなく、すこしだけずれた場所に戻るのだ。


人間関係が嫌になったら逃走して別の人間関係に移ろう。異性にこっぴどく馬鹿にされたら逃走して別の異性のところに行こう。仕事が嫌になったら逃走して別の仕事をやろう。


そうやって自分の居場所を少しだけずらすために逃走の哲学を使う。逃走の哲学が指し示す避難場所に固定化されてはいけない。そこにあるのは孤立だけだ。だからもう一度戻るのが大切だ。


まあ要するに「逃げてばかりじゃ幸せになれないんじゃないか」という話だ。逃げることとチャレンジすることを両立することが大切だ。