【感想】負け犬の遠吠え / 酒井順子

30歳を超えて結婚していない女性を「負け犬」の定義にして、自身含め負け犬についてざっくばらんに語っている本。現代の未婚社会を語る上で古典ともいえる名著だろう。

負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え


本書は15年前の作品なのだけど、2019年になり日本社会はまさにこの本に書かれている通りの負け犬の大量発生を迎えている。


本書を要約すると、負け犬が大量発生する原因は大きく3つある。

  1. 個人の自由を尊重する傾向
  2. 東京
  3. 上方婚と下方婚の組み合わせによる死角の存在


個人の自由を尊重する社会。まあ、これは今となってはよく言われていることだろう。現代社会では個人の裁量が大きいので、それぞれの目標に向かって仕事をしたり、趣味に没頭したり、特別なアクティビティを楽しんだりする。もちろん大人になったら結婚とかしなきゃなとは多くの人が思っているが、人が自身を大人になったと感じるのは35歳であり、そこから焦って婚活を始めても手遅れになりやすい。


個人の自由については最近考えることが多いので、すこし考察する。個人主義、自由というと響きはいいが、言い方を変えれば自己責任で物事を選択していくということだ。ところが、自己責任の範疇では結婚のような不可逆的な大きな変化を決断することは難しい。自己責任での選択は「やっぱ今のなしよ」が出来ないと難しいのだ。自由であることは良い事かどうかというのはなかなか深い話。現代社会は20世紀に世界大戦を引き起こした全体主義へのアンチテーゼとして、個人が全体から自由であることを良しとするようになっている。しかしその前の時代には、宗教などの大きな物語に従うことを良しとする世界があった。その時代的な狭間にいるのがニーチェハイデガーといった哲学者だ。彼らは大きな物語の消失を予感していた。大きな物語が消失した自由な世界には退屈が生まれ、人々は「暇つぶし」をするだけの存在になるというような話をしている。つまり、僕らが自由は素晴らしいと言いながら行っている日々の活動は、ただの暇つぶしなのかもしれない。自由を暇つぶしに転嫁させず意味のあるものにするというのはなかなか難しいテーマなのだ。そういう意味では、結婚するということは暇つぶしとは一線を画した意味のある行動なのかもしれない。



東京一極集中。本書によれば東京は負け犬の聖地であるらしい。そんなところにどんどん人口が一局集中しているのだからこれはやばい。まあこれも自己責任の話だろう。隣人の顔も知らない東京は、自己責任の街だ。自己責任では結婚は決断出来ない。この本は2004年だが、2019年からみるとインターネットも同様の機能を持っているのかもしれない。



上方婚と下方婚。男性は下方婚(自分よりスペックが劣る女性との結婚)を好む傾向がある。一方で、女性は上方婚(自分よりスペックが優れている男性との結婚)を好む傾向がある。そのため、低スペック男性と高スペック女性はお互いの死角に入ってしまう。本来であれば、余り者同士が結婚すればいいのではという話なのだが、低スペック男性と高スペック女性との間の断絶が大きすぎて、この両者は結婚し難い。したがって未婚のままなのである。


おそらく本書は「未婚の高スペック女性」という負け犬に向けて書かれた本だろう。彼女たちは二重性の中で生きている。一方では、東京で絵にかいたような生活レベルの高い暮らしを送っている。しかしもう一方では、例えば親戚の集まりや同窓会などでは、負け犬として扱われる。この二重性のために生きづらい感じになってしまうのだが、負け犬であることを認めることで、少し楽に生きていけるのではないかと本書は提案している。



このような話を負け犬である著者の様々な実体験を交えながら語っていてとても面白い。読んでおいて損はないかなという一冊だと思う。