【時短】若鶏のトマト煮込み

チキンのトマト煮込みがすごく好き。チキンの旨みにトマトの酸味はベストマッチだ。あとトマトというのは昆布と同じ旨み成分を内蔵しているらしいので、煮込み料理にトマトを入れるのは基本的にSo good。


なので僕はチキンのトマト煮込みを作ることがけっこう多いのだけど、ただ作るのちょっとめんどくさい。野菜切ったりちゃんと煮込んだりとかするのがね。包丁とまな板は一人暮らしの大敵だろう。


と思ってたら僕の好きな料理系ユーチューバーのナオトさんがキャンプ飯としてめっちゃ簡単に作ってた。しかも十分美味しそう。

www.youtube.com


これはトマト煮込み革命ではないか。イノベーションというやつだ。まな板包丁不要。調理時間はおそらく5分もかからないくらいだ。なんてこった。


材料は

  • 鶏もも肉を一口大に切ったやつ(この状態でスーパーに売ってる)
  • ホールトマト缶
  • 冷凍ほうれん草


食材を揃えたらチキン焼いてホールトマト入れて冷凍ほうれん草入れるだけのようだ。適当に塩とコンソメで味付け。


さっそく僕も真似してみるとこれがほんと一瞬で完成するんだけどとても美味い。これなら仕事から帰って疲れてる時とかでも余裕で作れる。


これのイノベーションがどこにあるかを考えるにやはり冷凍ほうれん草を使うことだろう。野菜を用意する手間がなくなるだけで圧倒的に簡単になる。あと煮込む時間も数分で十分なようだ。ちょっと酸味が残ってるくらいで美味しい。今まで無駄に長時間煮込んでいた。


これは週1くらいで作らないわけにはいかないだろう。材料も鳥とトマトとほうれん草なので、塩とか油とか入れすぎなければとってもヘルシーだろう。


これだから料理系ユーチューバーを観るのはやめられない。

ゼロ年代

ゼロ年代にはとにかく楽しかった思い出しかないのだけど、いろいろともやもやしている部分もある。


昨日、こんなニコ生放送を観た。

live2.nicovideo.jp


うーんそういえばゼロ年代とはこういうものだっただろうか。


僕のもやもやの原因はおそらくゼロ年代が少しばかり楽しすぎたということだ。僕以外にも、あの頃はよかったという書き込みをよく見かける。なぜそんなに楽しかったのか。


上記のニコ生を観てゼロ年代の狂騒そのものが否定神学マルチチュードだったのではないかという可能性を考え始めている。


振り返ってみれば、旧体制的な日本社会全体を特異点においた大きな対立構造があの時にはたしかにあって、皆がその対立に乗っていたような気がする。そう考えるとあの無条件な楽しさや、その後の消失にも納得がいく。


けっきょくのところあの時代の僕たちはネトウヨ的な排外行為の享楽を得ていただけなのだろうか。それはもっと考えてみる必要がありそうだが、少なくとも2011年以降、インターネットがさらに普及してネットvs日本社会の対立構造が希薄化していくとともにゼロ年代の熱は失われていった。


僕はあの時代の「そらの的朝ニュース」がすごく好きだった。あれには不思議な楽しさがあった。ふたたびあの不思議な楽しさを立ち上げることが出来るのか。それともあれは否定神学マルチチュードという場の中のちょっとしたエネルギーの揺らぎのようなものだったのだろうか。


とにかく僕はもう一度「そらの的朝ニュース」が観たいのだった。そしてそれは「ゼロ年代をもう一度」というところとは別のところから出てくるのだろうと思う。だからゼロ年代的なものから少し距離を置こうと思った。自分の立ち位置を少しずつずらしていく。それがゼロ年代でもっとも大切なことだったはずだ。

オンラインゲーム的宇宙観

みなさん宇宙について考えていますか。宇宙はいいですよ。大きいし。


僕も宇宙ってなんなんだろうな~ってたまに考えるのですが、今のところ僕の宇宙観はけっこう固まっていたりします。なのでそれをつらつらと書いていきます。ちなみに電波感しかないので半分本気くらいのノリで見ていただけると幸いです。


概要

僕たちが認識しているこの3次元空間の宇宙は幻想である。本当の宇宙は、宇宙の外側の境界平面上にデジタルのような情報として存在している。


平面上の情報が3次元空間世界として投影されたものが、僕たちが認識しているこの宇宙空間なのだ。そして、この宇宙空間に存在する意思を持った存在は「私自身」だけなのかもしれない。この宇宙には僕しかないない。というよりもこの宇宙空間は僕専用のものであり、人の数だけ宇宙空間があるのだろう。なぜならば僕たちが知覚している何もかもは本当は宇宙の外側の平面上に記録されている情報なのだから、ここにある3次元の宇宙空間は「私自身」の認識の結果でしかないのだ。


上記がざっくり僕の宇宙観なのだが、この構造はMMOやFPSのようなオンラインゲームに似ている。


オンラインゲームをやる場合、ゲーム内世界の空間データは全て各プレイヤーのローカル環境にインストールされる。オンラインゲームの各プレイヤーは、それぞれのローカル環境で立ち上げた物理的には別々のゲーム世界で孤独にプレイしている。にもかかわらず、僕たちは同じゲーム内世界に複数のプレイヤーが存在しているかのように認識する。しかし実際のところ、僕のローカルデバイス上に立ち上がっているオンラインゲームの世界内に存在するのは「私自身」だけである。他のプレイヤーはゲーム世界の外部から送信されてくるデジタルデータとしてしか存在しないのだ。


目に見えているこの宇宙は幻であるという宇宙観はプラトンイデア論なのかもしれない。目に見えているこの世界は影でしかなく、本質はイデアにあるという哲学理論だ。てつがくフレンズでも触れられていたけど、紀元前400年ころにつくられたこのイデア論について、人類は2000年以上の間ずっと議論してきた。


さて、なぜ僕がこのような宇宙観に至ったかというと、物理学のコペンハーゲン解釈というものがどうしても訳が分からなかったからだ。そして色々とどういうことだと考えていて、コペンハーゲン解釈をオンラインゲーム的に考えるとしっくり来たからだ。


ということでその辺りを説明していこう。


量子力学 / コペンハーゲン解釈

ちょうど100年ほど前、有名なアインシュタイン相対性理論と時代を同じくして、量子力学という物理学が立ち上がった。


量子力学というのは電子や光子などのミクロな物質を扱う物理学の一分野だ。なぜそれまでの力学とは別に量子力学というものが出来たのかというと、実験でミクロな物体の運動を観測してみたら、僕たちが認識しているこの世界とはずいぶんと様子の違う運動をしていたからだ。


有名なのが二重スリット実験である。二重スリット実験についてはネット上にいろいろと転がっている。

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二重スリット実験で明らかになったのは、どうやら物質というものは粒子として観測されるが、観測されていない時は波のように振る舞っているようだということだ。


物質は粒子でもあり波でもある。どういうこと?


この不思議な二重スリット実験の実験結果に対して、「物質は観測されていない時には確率的な複数の状態の重ね合わせとして存在していて、観測されると状態が確定して粒子に変化する。」と考える解釈がコペンハーゲン解釈であり、この摩訶不思議な解釈が今のところもっとも主流である。


つまり、僕の目の届く範囲では物質は粒子となって色々な物体を形作っているが、目に見えていないところでは、物質は確率の波としてぼんやりと曖昧に存在しているということだ。僕たちの一般的な世界観からするとこの現象は理解出来ない。この世界はたしかにこの世界として存在しているはずだからだ。しかも「私」の観測範囲がこの世界の成り立ちに影響しているというのだから、わけがわからない。


しかし実は僕たちはこのような仕組みのもと実装されている世界を知っている。オンラインゲームの世界だ。


僕たちがゲームをプレイしている時、ゲーム本体はレンダリングという機能を動かし続けている。ゲーム世界のデータは全て0と1とで表現されるデジタルデータである。そのデジタルデータを元にして画面上に3次元世界を描き出すことをレンダリングという。


そしてこのレンダリングというのは非常に負荷の高い工程なので、一般的に広いゲーム世界全体をレンダリングするのではなく、画面に映る範囲(+α)だけを必要最小限レンダリングして画面に表示している。つまりゲーム世界というのは画面に映っている範囲内では3次元世界が広がっているが、その外側は0と1とのデジタルデータしかないのだ。


この構造はコペンハーゲン解釈に似ている。僕たちの観測範囲内の物質はレンダリングされて粒子になるが、その外側ではぼんやりとしたまま存在している。このようにオンラインゲーム的に考えると、あの訳が分からなかったコペンハーゲン解釈の世界観が少なくとも実感としてしっくりくるようになるのだ。


超弦理論 / ホログラフィック宇宙

50年前から現在まで、最先端の理論物理学超弦理論という理論に取り組んでいる。


50年前の時点で量子力学標準模型というほとんどの力の相互作用について記述可能な理論を構築していた。しかしこの標準模型で唯一計算出来ないのが重力の相互作用だった。重力を計算する理論としてアインシュタイン一般相対性理論があるのだが、ミクロの世界を扱えるように一般相対性理論量子力学の中に組み込もうとすると上手く計算出来なくなるらしい。


そのため、理論物理学者たちは重力を扱える量子力学(量子重力理論)を求めて研究を続けていて、その最先鋒が超弦理論なのだ。超弦理論は物質の最小単位を弦のように振る舞うエネルギーであるとして、その弦の振動の仕方によって色々な素粒子が形作られているとするものだ。

ja.wikipedia.org



そしてこの超弦理論が、ホログラフィック原理に繋がっているらしい。


ja.wikipedia.org


ホログラフィック原理というのは、空間内部の情報は空間の内部ではなくその外側の境界平面上に符号化して存在しているという理論。ブラックホールの事象の地平面の内側の情報量は、ブラックホールの内側の体積ではなく事象の地平面の面積に比例するという発見があったのだ。そしてこの平面上での物理現象を超弦理論で記述出来そうということらしい。


この空間内部の情報は境界平面上に存在するという原理を、宇宙にも適用しようというのがホログラフィック宇宙。この宇宙のあらゆる情報は、宇宙の外側の境界平面上に符号化して存在し、僕たちが認識しているこの宇宙空間は、平面上の情報がホログラフィーのように投影されたものにすぎないということだ。


このホログラフィック宇宙の世界観もオンラインゲームに似ている。境界平面上に存在する本質的な情報というのはオンラインゲームにおけるサーバー上の情報であり、僕たちの手元にあるゲーム機はその情報をダウンロードしてレンダリングして表示しているにすぎない。僕たちが認識している世界に本質はなく、本当の情報はサーバーとか境界平面上とかにあるのである。


まとめ

以上から、僕はこの宇宙はオンラインゲームのような仕組みにそっくりなのではないかと思っている。


かなり電波感あるけど、まあしかしなんかこう考えると色々とすっきりする。僕らの認識しているこの世界と、物自体の情報がある世界とはまったく別物であるという考え方になるだろうか。


この世界観は紀元前400年にプラトンが提唱したイデア論そのものか。けっきょくプラトンが一番正しかったのかもしれない。プラトン恐ろしい子・・・!


しかしこうまでオンラインゲームの実装に似ているとすると、この世界はさらにその外側の誰かが作ったオンラインゲームなのではないか・・・、おっと誰か来たようだ。

【感想】てつがくフレンズ / Mako.・飲茶

この本はとても評判がよくて、「萌え漫画ですぐ分かる哲学者」かなと思ってゆるいノリで読み始めたのですが、後半にいくにしたがってすごいハラハラドキドキなスぺクタル展開になって、読み物として面白かった。

てつがくフレンズ 女の子の姿になった哲学者たちの哲学学園

てつがくフレンズ 女の子の姿になった哲学者たちの哲学学園


この漫画の主人公はプラトン(が美少女になった何か)。サブ主人公がプラトンの師匠ソクラテス(が美少女になった何か)。様々な哲学者と議論しながらプラトンイデア論にたどり着くというのが基本的なプロットになっている。


基本的にプラトンソクラテスなど古代ギリシアの哲学者がいる古代組クラスで物語を展開していく。前半部分は当初の予想通り、とにかく論破しまくるソクラテスや回転しまくるアナクサゴラス先生など、哲学ネタをギャグに使ったゆるふわ漫画。


古代ギリシア哲学者に敬意を払いつつも彼らの哲学をシニカルにギャグ化していて、もうこの前半の時点でけっこう面白い。


後半にはいると徐々に著者の飲茶さんの哲学がだだ漏れし始める。飲茶さんはサイトもやっていて、これがとても面白いので一読の価値あり。書籍化もされているようだ。

noexit.jp


特に終盤のフーコーvsソクラテスはめっちゃ面白くて、哲学者の解説本にこのネタを突っ込むのがもったいないと思ってしまうくらい物語としてもよく出来ている。


解説本なのにまじで続編が出てほしい。とにかく面白い本だった!

【感想】1日で学び直す哲学 / 甲田 純生

何もかもを1日で学び直したい。そんな現代人にぴったりな本(?)


何かを学ぶ時は歴史から入るのがいいと思う。特に哲学は積み重ねの議論なので、歴史を抑えてからでないと文脈が分からなかったりする。もちろん「~の使い方」みたいなスキル習得系の勉強だと歴史は必要ないとは思うけど、それにしたってそのスキルが出来た歴史や背景を抑えておくと抽象化に役に立つと思う。


この本は哲学史において重要と思える哲学者の数を絞ることによって、浅すぎず狭すぎずな感じで上手くまとまってる本だなと思った。ただ当然のことながら人を絞っている分だけ網羅性は低い。タイトルの「学ぶ」じゃなくて「学び直す」というところが肝で、一通り他の何かで哲学史をざっとさらった後でこれを読むともう少し深く掘り下げられてすごくいいんじゃないかと思う。


この本でも古代ギリシアから始まるのだけど、普通はソクラテスタレスあたりから始まるところ、ピタゴラスから開始するのが面白い。ピタゴラスが宗教団体の親分だったとか知らなかったw


ソクラテス/プラトン/アリストテレスにもずいぶんとページを割いている。西洋哲学はやっぱりこの3人は外せない。


中世哲学はばっさりカットされてる。哲学の歴史が語られる時って、だいたい紀元前300年のアリストテレスから17世紀のデカルトに一気に飛ぶ。2000年くらい一気にすっとばす豪快さがいい。2000年だぞ2000年。この間の哲学は基本ずっとキリスト教か、ルネサンス以降は古代ギリシア哲学について考えてたので現代となっては重要度が低いようだ。


近代哲学ではデカルト/カント/ヘーゲル/ハイデガーを掘り下げている。これらの有名人に混ざってフランス現代思想バタイユとか出てくるのは著者の好みだろうか。


という感じで、この本は主要な哲学者10人くらいに焦点を当てて哲学史を振り返っている。浅すぎず狭すぎず、一度さらった哲学史をもう1周学び直すには良い本だと思う。

耳で聴かない音楽会

落合陽一さんが耳で聴かない音楽会というのをやってるみたい。これに非常に感動したのでちょっと書く。

www.japanphil.or.jp


これは聴覚障害の方たちでも楽しめる音楽会ということなのだが、要するに落合さんは「音楽会を楽しむのに音が聞こえる必要はない」と言っているのだ。そしてこの仕掛けは言われてみれば実に簡単で、音の強弱や周波数特性の変化を聴覚以外の知覚に対して演出するというものだ。


現代哲学(構造主義相対主義)でこの半世紀くらい語られているのが、この世の中にある物事は他の物事との「差」で認識されているという考え方。この考え方は論理的には非常に正しいように思えるし支持者も多いのだが、一方で実社会活動をおくっていくうえでこれを参考にしようとしても、次々に湧いてくる差分がぐるぐると回り始めて、あーいえばこういうの屁理屈ばっかり言ってるみたいに聞こえてしまう。


そんな問題のある考え方だが、しかしとりあえず人はあらゆる物事を他の物事との「差」として認識しているという立場に立ってみる。


そのうえで、落合さんの「耳で聴かない音楽会」を考えてみると非常に面白い。僕たちが「差」として物事を認識しているということは、音楽も音波の時間的な「差」として認識しているということだ。だから音楽を聴くうえで大切なのは「差」なのであり、同等の「差」さえあればそれが音である必要はないのだ。だから視覚や触覚に対して同じ「差」を演出できればいい。


これが「耳で聴かない音楽会」のロジックなんだと思う。これは発想が柔軟だ。


20世紀の哲学は物事の絶対的な価値や意味を否定して全ては「差」であるとした。これはもともと弱者に優しい哲学だったのだ。たとえば白人と黒人の人類学的な構造には違いがなく、そのため優劣もなく、そこには差しかないんだと。だから文脈的にもバリアフリーと親和性が高い。


ただ、この考え方は社会生活に適用しようとするといかにも屁理屈っぽく聞こえるからか、社会に実装されないまま(?)近年勢いがなくなってしまった。


なのだが、落合さんは「こうやればいいんでしょ」とばかりに、テクノロジーを使って相対主義の実装をやってのけた。僕からは「耳で聴かない音楽会」がそんな風に見えた。


もちろん音波の周波数特性は倍音成分とか含まれててとっても複雑だからその「差」を演出するデバイスはまだまだ改善出来るだろうと思うけど、とても楽しみなプロジェクトだね。


そんな雑記でした。

【感想】メモの魔力 / 前田祐二

去年は石原さとみさんとか石原さとみさんとかでいろいろと話題になったSHOWROOM社長の前田祐二さんの本。メモを取ることには様々なメリットがあり、人生が変わるとのこと。

メモの魔力 The Magic of Memos (NewsPicks Book)

メモの魔力 The Magic of Memos (NewsPicks Book)


メモを取ることには大きく2つの意味がある。事実の記録と、思考の展開だ。


事実を記録して見逃しや忘却を防ぐこと。おそらく一般的にメモを取るのが良いとされているという理由だろう。目についたことや思いついたこと、それらを片っ端からメモしていく。そうすることによって色々なことに気が付くことが出来るし、後から見返すことも出来る。人は1日の中で出会った物事の多くを忘れてしまうか、あるいは気づくことすら出来ない。


これは逆に言えば、いつでもメモを取れるように注意深く観察しろという意味でもある。そしてとにかく書くということだ。前田祐二さんはいついかなる時でもメモを書くようにしているらしい。


もう一つ。メモを取ることによる思考の展開について。


メモを取る際には事実を記録するだけでなく、事実に対する解釈を付け加えることが重要だということだ。前田さんは本の中で抽象化をしろと言っている。その事実の何に興味を持ったのか、なぜ綺麗だと思ったのか、そのように事実から重要な特徴を抜き出すことで事実が汎化され、他のケースに転用出来るようになる。


そして前田さん曰く、メモを取ることで日常的に事実の抽象化という思考プロセスを行うこと、それ自体が重要だということだ。つまり毎日抽象化の訓練をした方がいいってことで、たしかにそうだろうと思う。



この本では前田さんは紙のノートを使うことを推奨している。近年デジタル化が著しい世の中だけど、紙へのフリーライティングというのはやはり思考の幅を広げてくれる。実際のところ、電子書籍よりも紙の書籍の方が読んだ時の学習効率が一般的に高いという研究結果もあるようなので、紙には紙の魔力があるのだろうと思う。


とはいったものの、普段からボールペンすら持ち歩いていない僕にとって紙のノートはなかなかかなりハードルが高い。ホリエモンiOS標準のメモアプリを使っているみたいなので、ひとまずメモアプリにつらつらと書いていこうかなと思う。人によって合う合わないはもちろんあると思うけど、まずは色々とためしてみるのがいいだろう。



あと、これは本の内容とは直接関係ないけど、巻末付録に「人生の軸」というのがある。メモの魔力の中でしている目標を持ってメモを取ることが大切だという話の延長で、前田さんがtwitter上でフォロワーが人生で大切にしていることを募集して、集まったたくさんの「人生の軸」を巻末にずらーっと並べているのだ。正直なところ僕はこの部分がこの本の中で一番好きだ。


昔はTwitterのタイムラインとか、ニコニコ動画のコメントとか、インターネットにより個人的なものが個人的なもののまま集合して可視化される、そういうところに可能性があるという議論があった。東浩紀さんの一般意志2.0の議論などはまさにそれだが、最近は皆かなり空気を読んだ発言をするので、そういうものに触れる機会がなくなっていたように思う。そういう意味で、この本の「人生の軸」で個々の想いがずらーっと改行もなしで並べられている光景に、すこしばかり感動してしまった。