ニコ論壇の終焉

2010年代も終わろうという2019年、色々起こっている。色々と節目をむかえているのかもしれない。


京アニの事件は象徴的な出来事かもしれない。絶望的な気分になるのは、あの事件は文化史視点からも語られるべきだと思うのだが、誰もその視点から語ることが出来ない。時代の空気がそれを許さない。


まあそれは今は蛇足で、陰鬱な気分になったのがあいちトリエンナーレの件だ。

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この件は大炎上していて、「表現の自由」というテーマで議論されている。まあ実際それが一番の問題なのだが、個人的には別の違う視点で見ている。


津田大介だ。津田さんは、ニコ論壇唯一の生き残りだと思う。がちがちに固まった社会を変えようという言論空間がネット上に立ち上がったのが十数年前。なのだが、その後ドワンゴが手を引いたりなどもして、その頃活躍していた人たちは、テレビのコメンテーターやオンラインサロンや自己啓発や大学教員など、小さな世界を指向していった。


その中で唯一、政治や行政という大きな世界にコミットし続けていたのが津田さんだ。今回のあいちトリエンナーレの芸術監督という立場も、そうやって真面目にコミットし続けてきた結果たどり着いたポジションなのだ。そこで津田さんはアファーマティブアクションをテーマに打ち出して、かなり高い評価を得ていた。このまま成功させれば、より大きな世界に入っていけるはずだった。


そうやって津田さんが積み上げてきたものが、今回の炎上でついた強烈な負の印象でダメになってしまう可能性がある。猪瀬直樹さんにも「津田の性」と言われていた部分が最悪な形で出てしまった。


ここで津田さんがつぶれてしまうと、あの希望に満ちていたニコ論壇は結局何も生み出さなかったという結末になりかねない。なんとかあいちトリエンナーレの件が穏便に決着してほしいと思う。表現の不自由展は、津田さんが時間をかけて作ってきたあいちトリエンナーレという巨大なイベントのほんの一企画にすぎないのだから。

昔のインターネットはよかった?/誤配のあるコミュニティ

昔のインターネットはよかったというのはSNSなどで定期的に見かける話題だ。僕もゼロ年代好きだったから、もちろんその感覚がある。


しかしその理由になると途端によく分からない感じになる。もっと和気あいあいとしてみんな優しかった、という話も当時を美化しているだけのように思うし(当時も同じくらい荒れることはあった)、昔はすごい人たちがたくさんいたというのも、どちらかというと今の方がすごい人たちがみなインターネットをやっているだろう。


個人的には、昔は皆もう少し空気を読まずに自由に発信していたと感じているが、しかしそれも根本理由には届いてない気がしていた。


そんな感じで、「昔のインターネットはよかった」というのはいまいち言語化に困る感覚だったのだが、以下のツイートを見て、ああこれかもなあと思った。


昔のインターネットは、今と比べてアイデンティティの異なるもの同士が共生しているという感覚が強かったと思う。おそらくこれが「昔のインターネットはよかった」という感覚の源なのではないだろうか。


共生しているという感覚について、昔がよくて今はだめになった理由としては、単に規模の違いだろう。10年ほど前はインターネットが今から見ればまだまだ少数派の空間だったので、インターネット空間全体が1つのコミュニティのような機能を持っていた。「インターネットに参加している」という感覚が当時はあったと思う。今はもうないが。


決定的に重要だったのは、インターネットは基本的に回線があれば誰でも好き勝手に参加可能ということだ。誰でも好き勝手に参加可能なコミュニティとしてのインターネットは、様々なバラバラのアイデンティティを内包していて、それでいて規模の小ささゆえに1つのコミュニティとしての機能があり、ネットユーザー同士が同じ場にいるという感覚を持ち合わせていた。


本来会うはずのなかった人たちが間違って接続されることを誤配と言ったりするが、ゆるく柔軟に生きていくためには誤配が起こることが重要だというのは東浩紀さんの議論だ。昔のインターネットは、インターネット回線にたまたま接続した人が、インターネットという1つのコミュニティに組み込まれる状態になっていて、誤配の起こりやすい空間だった。おそらくこれが当時のインターネットの魅力だったのだろう。



2010年代に入るとSNSや動画サイトが流行し、インターネット利用者は爆発的に増えた。その規模の拡大のため、インターネット空間自体はコミュニティとしての機能を失っていった。


その結果として、インターネットの中にいくつかの大きなコミュニティ(クラスタ)が立ち上がってくる。この新しいコミュニティの形成はSNSのフォロー機能などを通して行われたため、コミュニティ参加者同士が強いつながりを持っている。最近ではオンラインサロンなどの、さらに強いつながりを希求する小さなコミュニティ群が形成されつつある。


綿野さんがツイートしていた、「様々なアイデンティティの持ち主が、その違いを超えて、同じ場や状況にいるという実感みたいなものは、やはり必要だと思う。」というのは、強いつながりのコミュニティではなかなか実現が難しい。昔のインターネットのような、誰でも好き勝手に参加可能でありながら1つのコミュニティとして機能するような、そんな誤配に満ちた弱いつながりのコミュニティ論が、次の10年では出てくるといいなと思う。

吉本興業のやつ

一応両者の会見は見たが。うーん。

世間では吉本がひどいという感じになっているけど、吉本側の会見も素直に聞くと、まじでどうでもいいことで大騒ぎしてるのではないかとしか思えない内容になってくる。


両者の会見の内容を素直に聞いて要約すると、以下の三点くらいしか内容がない。

①反社との意図的な繋がりは芸人にも吉本にもない。
②芸人は金銭を相当額受け取っている。かつ確定申告していない。
③社長の言葉使いが悪い。


①について。もうこれで結局何がしたかったんだっけとなる。反社との繋がりはない。会見のゴールは失われた。


②について。これは普通に問題だろう。特に受け取っていないという話から一転して受け取ったとなるのだから、影響範囲が大きく、広報としても話のまとめ方が難しい。


③について。これも色々と問題はあるのだろうが、②の問題を起こした者たちへの態度だということも加味して考えなければならないだろう。特に会見を開かなかった事が問題とされているようだが、しかし落ち着いて考えてみてほしい。金銭を受け取ってないから受け取ったと話をひっくり返し、金額面についても曖昧なまま、人数もどんどん増える。宮迫は憶えてないの一点張りだ。とにかく急いで状況を再確認して、適切に広報する必要がある。そんな状況で今すぐ会見やらせろと言われても、やらせないのが普通だろう。僕でもふざけんなと彼らを怒るだろう。



トータルして考えると、問題になるのは②しかない。②にしたって、反社とは知らなかったわけだし、実際のところ彼らの収入からすれば100万円程度は飲み代に消えるくらいの誤差だろうし、脱税といってもそこまで悪質なものではないだろう。


そうすると結局、この一連の騒動はなんなのか。ただ単に、部下が上司に不満をぶつけている。それだけの話を、他の様々なニュースを差し置いて、日本中巻き込んでやってるだけなのではないか。


本当にかんべんしてほしい。

選挙に行こうと、言いすぎてはいけない

PDCAまわしていこ

どう振る舞うか?

京アニの件で、SNS上で各人がどのように振る舞うべきかに焦点が当たっているのは、今までにない現象だと思う。


いろいろとリツイートなどをして言及し続けている人もいるが、一方で普段どおりに何事もなかったかのように振る舞うべきだという意見も大きい。おそらくこれは震災を起点としたここ10年のSNS上で起こった様々な事からの教訓から来ているものだろう。


まあしかし、個人的にはどっちでもいいのだろうと思う。例えば、話題に出さず普段どおりにしていようというのも一見すると一理ある。情動感染というのはたしかに問題なのだ。しかし、普段通りにしていようというのは、事件について言及している人が一定数いるから成り立つ考え方ではある。あれだけの事件が起こって、誰も話題にしたがらなかったらそれこそ異常な状況だろう。


まあつまり、言及しすぎてもいけないし、話題を遠ざけすぎてもいけない。全体としてバランスが取れていれば各人どちらで振る舞ってもいいだろう。


それよりも近年のSNSの問題は、一時的な爆発的な反応と、その後の食傷感だろう。この世界には簡単に飽きてはいけないものがあると思うのだ。ほどよいバランスで、ほどよい頻度で、持続的にこの事件を追っていくようにしたい。僕にとって人生で一番楽しかった時期はゼロ年代で、京都アニメーションはその中心にあった集団で、当時からの中心メンバーが何人も犠牲になっているという憶測も飛び交っていて、かなり堪えているが、ほどよいバランスで、ほどよい頻度で、持続的にやっていこう。

無差別殺人

無差別殺人が起こると様々な原因の憶測が飛び交うが、根本的な原因は、人間社会を構成する我々だれもが殺人事件を起こす能力を持っているということだろう。落ち着いて考えるとなかなか怖い話ではあるが、無差別かつ自己犠牲前提であれば10人程度殺傷する能力をほとんどの人が持っているのだ。


おそらく他の動物ではこうはならないだろう。強いものが弱いものを殺傷することはあっても、個体の強弱に関わらず誰もが同時並行的にその能力を持っているのは異常な生態系だ。これは道具の力によるものだが、ある意味全ての人が暴発する可能性のある爆弾のようなものである。


僕たちの行動はホルモンバランスに支配されている。ホルモンを自分で制御することは難しい。ホルモンバランスの崩れで鬱病になることを自分で止めることが難しいことは広く認知されてきているだろう。それと同じように、強いストレスが継続的にかかるとストレスホルモンが過剰に分泌され自制が効かなくなり、爆弾に着火する可能性を誰もが持っている。


一昔前、我々のストレスは全体主義によってコントロールされていた。全体主義の中では各個人にかかるストレスは安定しているが、ひとたび号令がかかれば我々の爆弾は一斉に点火され、巨大な戦争が起きていた。欧米諸国はこれを深く反省し、個人主義に向かった。個人主義の世界では爆発の連鎖は抑えられたが、我々にかかるストレスはアンコントローラブルなものになった。私にどのようなストレスが襲い掛かってきているのかは、もはや私自身にしか分からないし、未来も予測出来ない。だから誰の爆弾がどのような形で爆発するのかは、もう本当に分からない。


我々全員が爆弾であり、いつ誰に着火するか分からない。そのような世界をどう設計していくのかはまだ誰にも分からないが、おそらくストレスをある程度コントロール出来るようにする方向に向かうだろう。神を復活させるか、国家を復活させるか。



ところで、ストレスは人から人へと伝染する。文字を見ただけで、声を聞いただけで、画像を見ただけで、ストレスは伝染する。だからなにか大事件が起きた時にはSNSはほどほどにして、よく寝るのがいいだろう。

【感想】負け犬の遠吠え / 酒井順子

30歳を超えて結婚していない女性を「負け犬」の定義にして、自身含め負け犬についてざっくばらんに語っている本。現代の未婚社会を語る上で古典ともいえる名著だろう。

負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え


本書は15年前の作品なのだけど、2019年になり日本社会はまさにこの本に書かれている通りの負け犬の大量発生を迎えている。


本書を要約すると、負け犬が大量発生する原因は大きく3つある。

  1. 個人の自由を尊重する傾向
  2. 東京
  3. 上方婚と下方婚の組み合わせによる死角の存在


個人の自由を尊重する社会。まあ、これは今となってはよく言われていることだろう。現代社会では個人の裁量が大きいので、それぞれの目標に向かって仕事をしたり、趣味に没頭したり、特別なアクティビティを楽しんだりする。もちろん大人になったら結婚とかしなきゃなとは多くの人が思っているが、人が自身を大人になったと感じるのは35歳であり、そこから焦って婚活を始めても手遅れになりやすい。


個人の自由については最近考えることが多いので、すこし考察する。個人主義、自由というと響きはいいが、言い方を変えれば自己責任で物事を選択していくということだ。ところが、自己責任の範疇では結婚のような不可逆的な大きな変化を決断することは難しい。自己責任での選択は「やっぱ今のなしよ」が出来ないと難しいのだ。自由であることは良い事かどうかというのはなかなか深い話。現代社会は20世紀に世界大戦を引き起こした全体主義へのアンチテーゼとして、個人が全体から自由であることを良しとするようになっている。しかしその前の時代には、宗教などの大きな物語に従うことを良しとする世界があった。その時代的な狭間にいるのがニーチェハイデガーといった哲学者だ。彼らは大きな物語の消失を予感していた。大きな物語が消失した自由な世界には退屈が生まれ、人々は「暇つぶし」をするだけの存在になるというような話をしている。つまり、僕らが自由は素晴らしいと言いながら行っている日々の活動は、ただの暇つぶしなのかもしれない。自由を暇つぶしに転嫁させず意味のあるものにするというのはなかなか難しいテーマなのだ。そういう意味では、結婚するということは暇つぶしとは一線を画した意味のある行動なのかもしれない。



東京一極集中。本書によれば東京は負け犬の聖地であるらしい。そんなところにどんどん人口が一局集中しているのだからこれはやばい。まあこれも自己責任の話だろう。隣人の顔も知らない東京は、自己責任の街だ。自己責任では結婚は決断出来ない。この本は2004年だが、2019年からみるとインターネットも同様の機能を持っているのかもしれない。



上方婚と下方婚。男性は下方婚(自分よりスペックが劣る女性との結婚)を好む傾向がある。一方で、女性は上方婚(自分よりスペックが優れている男性との結婚)を好む傾向がある。そのため、低スペック男性と高スペック女性はお互いの死角に入ってしまう。本来であれば、余り者同士が結婚すればいいのではという話なのだが、低スペック男性と高スペック女性との間の断絶が大きすぎて、この両者は結婚し難い。したがって未婚のままなのである。


おそらく本書は「未婚の高スペック女性」という負け犬に向けて書かれた本だろう。彼女たちは二重性の中で生きている。一方では、東京で絵にかいたような生活レベルの高い暮らしを送っている。しかしもう一方では、例えば親戚の集まりや同窓会などでは、負け犬として扱われる。この二重性のために生きづらい感じになってしまうのだが、負け犬であることを認めることで、少し楽に生きていけるのではないかと本書は提案している。



このような話を負け犬である著者の様々な実体験を交えながら語っていてとても面白い。読んでおいて損はないかなという一冊だと思う。