「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」 の感想

(シンエヴァンゲリオンの感想です。ネタバレを含みます。これは全て個人的な感想なので、ご自身の第一印象を大事にしてください。あと、この記事は3/12に書いているのと、現時点まで考察や感想を読んでないのとで、この情報社会においては今頃このノリはおかしいとかはあるかもしれません。)



「気持ち悪い」


そんなアスカの台詞で終わったEOEから20年。新劇場版が始まってから14年。一連のエヴァ作品群の最後となるシンエヴァンゲリオンが公開されたのでさっそく観てきた。


この映画の単体の感想を言うのはなかなか難しいものがあるが、旧エヴァ含む一連の作品群の最終回としての感想は控えめに言って最高だった。エヴァQでは控えめだった戦闘シーンも盛りだくさんだし、エヴァQでは語られなかったニアサードインパクトから14年後の世界観も良かった。だからこの映画単体としても面白かったけど、僕にとってはやっぱり25年前からの付き合いのエヴァの最終回という側面での感想が強すぎるので、その視点での感想を書く。


といってもあれがこれがと言ってると収集がつかなくなってしまう。そこで、シンエヴァンゲリオンを観ていて震えるほどよかったシーンが2つあるので、その2つのシーンを紹介して感想とする。



初号機 vs 13号機 テーブルひっくり返しちゃってるやつ


いきなり物語終盤のシンジ君の初号機とゲンドウの13号機が戦うシーン。実態がなく記憶が具現化される世界での戦闘。つぎつぎと戦闘場所が入れ替わっていくのだけれど、ここで食卓でテーブルをひっくり返しながら戦ってるシーンがある。これを観た瞬間「この映画やってんな」と思った。


話は旧エヴァ時代に変わるが、庵野監督がテレビのインタビューで「エヴァは衒学的なもの」と答えていたのがすごく印象に残っている。当時からオタクの間ではエヴァの設定の解明みたいなものがすごく盛んで色々な本とかも出ていたのだけれど、そういったものの対象となっているエヴァの世界を衒学的だと言ったのだ。


ではそれらのものが衒学的なものなのだとすると、エヴァンゲリオンとはいったい何なのか。


今回の映画のタイトルは「シン」エヴァンゲリオン。この頃立て続けにシンゴジラやシンウルトラマンといったものが話題になっていたので、この「シン」という冠はあまり気にしていなかった。またいつものやつだよと。


でもこのシンエヴァンゲリオンはまさに真エヴァンゲリオンだったのだ。


衒学的な意匠を出来る限り取り除いた本当のエヴァンゲリオン。それを象徴するのが、初号機と13号機がテーブルをひっくり返しながら戦っているあのシーンだ。あのシーンは多くの人がどこかで見覚えのあるもので、昭和的な親子喧嘩の表現が引用されている。つまりシンジ君たちがやってることはただの親子喧嘩であり、エヴァも使途もネルフもヴィレもその他あらゆる設定もそのための衒学的な装飾品にすぎないということを見せつけるシーンである。


エヴァというのは親子喧嘩をしたり友達やアスカとの関係に悩んだりしながらシンジ君が大人になっていく物語なのだ。


ただ、多くのファンはエヴァの衒学的な部分にこそ熱心だった。旧劇場版のラストで母親やレイやエヴァに別れを告げて大人になったシンジ君ではなく、子供のシンジ君がさまよっていたイマジナリーな世界にこそ熱心だった。このことを新劇場版ではエヴァの呪縛と言っている。エヴァを否定するエヴァという作品は、その意図とは真逆に多くのファンをエヴァというイマジナリーな世界へ閉じこめてしまった。そしてシンエヴァンゲリオンはこの誤解を完膚なきまでに解くための作品だと言える。これでもかというくらいエヴァの恥部をさらしている。


その象徴がテーブルひっくり返しているシーンであり、僕が震えた最初のポイントだった。シンジvsゲンドウはいわば主人公vsラスボスなわけで、エヴァンゲリオンの物語の最後の決戦である。しかしエヴァという壮大な物語の最後の決戦にしては、まるでギャグマンガのようなあまりにもしょうもない戦闘シーンが続いていく。このしょうもなさこそが真エヴァンゲリオンなのだが、それにしてもここまでやるのかと本気具合に驚いた。



ラストシーン「胸の大きい良い女」


2つ目は物語のラストシーン。


このシーンでは(おそらく)28歳になったシンジくんとマリが登場する。駅のホームでシンジ君はマリのことを「胸の大きい良い女」と言っている。これはなんてことない台詞だと思われる。もうこの頃にはエヴァの本筋も終了しているのでエピローグ感もただよう。いやーシンジ君もずいぶん変わったなあと。めでたしめでたし。


でも少しひっかかった。なんでわざわざこんな台詞を言わせるのだろうかと。その疑問があれば答えはすぐに分かった。もしここに「14歳のアスカ」がいて、シンジ君の「胸の大きい良い女」を聞いていたらなんと言うだろうか。


そんなのは決まっている。「気持ち悪い」だ。


つまり、シンエヴァンゲリオンは旧劇場版と全く同じ終わり方をしている。旧劇場版の「気持ち悪い」の真意はなかなかはっきりしないものがあったのだけれど、こういうことだった。子供から大人になるというのは(子供から見て)気持ちの悪い存在になるということなのだ。


千葉雅也さんの「勉強の哲学」によれば、人が今いる場所から別の価値観へ移行する時にはつねにキモさを伴う。子供から大人に移行するというのはとてもキモいことなのだ。気持ち悪いを肯定して大人になる。それがエヴァンゲリオンの最後のメッセージであり、旧劇場版から四半世紀誤解され続けてきた結末である。


しかし同時に、キモくなれ大人になれと言われても今更感は漂う。多くの旧エヴァファンは今はもう40代50代になっている。


エヴァQでは、破から14年の時が経った世界で「エヴァの呪縛」という言葉が登場する。エヴァQを観た時にこれは僕らのことだと思った。旧エヴァから14年の時が経ってなお、大人になっていない僕らの事なのだと。しかし残念ながら新劇場版の「大人になれ」というメッセージは旧エヴァファンが対象ではなかったようだ。意図的かどうかは分からないが、庵野監督の体調の問題だったりコロナだったりがあり、結果的にシンエヴァンゲリオンは新劇場版の開始から14年後の作品になった。つまり新劇場版のエヴァの呪縛とその脱却は、28歳を中心とした新劇場版世代に向けられたメッセージだった。


それは残念なことだが、しかし僕らには旧エヴァがあったのだから、それはもうしょうがないことだ。


僕はEOEの大ファンなので、新劇場版になってずいぶん変わってしまったと思ってたエヴァンゲリオンが(ぽかぽかする綾波やあらゆる主体性が欠落しているエヴァQには眩暈がした)、それらはシンエヴァンゲリオンへの周到な伏線であり、最後にぜんぜんぶれてなかったということが分かって本当に嬉しかったという、超個人的な感想で〆る。


おしまい。

不買運動について

ユーチューブを観ていたらこんな動画がレコメンドされてきて、なんとなく観ていた。

www.youtube.com


このスタジオのコメンテーターたちは「ファミマのお母さん食堂問題の不買運動」には賛成だが「三浦瑠璃出演問題のアメプラ解約運動」には反対だという。そこにひろゆきがどちらも同じことやってるのに何をダブスタなこと言ってるのとつっこみを入れて、コメンテーターたちがあたふたするという、そういう番組。


しかしこの番組をみていて不買運動について考えるところがあったので、ちょっと書いてみる。不買運動について僕が考えているの以下のことだ。

  1. 不買運動のような扇動行為はしない方が良い。単に買わなければよいし解約すればよい。
  2. 不買運動を禁止してはいけない。
  3. 企業は不買運動それ自体ではなく結果(売上)で判断するべきである。


上記の動画の中で「市場原理にまかせよう」という話が何回も出てくるが、その意味はあまり考えられていないように思う。


市場原理にまかせるというのには僕も賛成である。しかし市場原理にまかせるというは不買運動を回避するということではない。もっと全体を俯瞰した状況、つまり実際の売上や契約者数の推移を見て考えるべきである。


「三浦瑠璃出演問題のアメプラ解約運動」を例にする。この問題でSNS上で解約運動を起こすのは熱心な三浦瑠璃アンチである。そしてこの解約運動に反対するためにSNS上で戦いを挑むのが三浦瑠璃ファンである。このような場合、SNS上では50vs50の白熱した議論が繰り広げられているように見える。SNSの半分は解約運動推進の人達で、もう半分は解約運動反対の人達で、めちゃくちゃ論争しているように見える。しかしそれは錯覚である。実際にはアンチもファンも極少数の存在であり、ぼんやりしたグレーな人達が目には映らない圧倒的多数として存在している。


このグレーな人達こそが極めて重要な存在である。それは民主主義というシステムにおいて「議論」よりも「投票」が重要であることと同じである。議論が好きなインテリたちよりも、グレーな人達の意思決定こそが最も正しいというのが民主主義の基本的な発想だ。


政治ならグレーな人達の意思表明は投票だが、企業が意思決定する際にグレーな人達の意思をすくい上げることが出来るもの。それこそが市場原理であり、実際の契約者数や売上の推移などを注意深く見守るべきである。SNS上で声の大きい人たちの言ってることを真に受けてはいけない。SNSはとても民主的なツールに思えるが、その場所は議論が投票に勝っている場であり、民主的な正しさが著しく損なわれている場なのである。

シンエヴァンゲリオンみてきた

エヴァの最後のやつを観てきた。


もともとあまり観にく気がなかったというか、ハッシュタグとかが落ち着てからゆっくり観ようと思っていた。でもいざ公開されてみると観た観たくて手が震えてくるみたいな感じになってしまったので、即行でチケットを買って観てきた。ちなみに公開直後だったけど平日昼はガラガラだったので、人ごみが嫌な人はここぞとばかりに有給を使って平日の昼にゆっくり観るのがいいかもしれない。


まあそれで感想とかを書きたい欲求もすごいのだけれど、観た直後に他人の感想を読むと、自分の感想との区別がつかなくなってしまってあまり良くないと思うのであまり書かないようにするし、しばらくは読まないようにする。夏くらいになったら色々読みあさるかもしれない。


僕がエヴァンゲリオンを見たのが中1くらいだったと思うので、それからずいぶん長い付き合いのアニメであり、ちょうどシンジ君たちと同世代だったというのもあって、人格的にもかなり影響を受けているアニメである。それの最終回ということで、正直なところ期待よりも不安の方が大きかった。


それでまあ観てきたわけだけど、あらゆる不安は取り越し苦労だった。ちゃんとエヴァンゲリオンとして終わってくれた。それだけでもう十分なのである。特にこの映画の一番最後のシーンは本当に良かった。
そして25年間もの間このクオリティを維持し続けた声優陣はすごいとしか言いようがない。


これでエヴァンゲリオンは思い出になったので、これはもうグッズを買い漁るしかないというところでまたお金が飛んでいきそうだ。

多様性について

多様性という言葉が世の中的にけっこう重視されるようになってきているけど、どうも多様性というものには2つの相反する側面があるようだというようなことを最近考えている。


その2つというのは「ミクロな多様性」と「マクロな多様性」である。ミクロな多様性とは僕たちの身の回りの多様性。目に映る社会がいかに多様かという指標だ。一方で、マクロな多様性というのは全体を俯瞰した時にいかに多様かという指標だ。多様性と言う時にこの2つはおそらくあまり区別されていないのだけれど、実はこの2つは全然別物であり、別物どころか相反する関係にある。


たとえば多様性の例として「女性の社会進出」を取り上げる。


女性の社会進出というのは、僕らの視点からみると男性だらけだったところに女性が入ってくるので、多様さが増したように見えるし実際に多様さは増している。今まで埋もれていた才能が発揮されるので社会的なメリットも大きい。一方で、マクロな視点から女性の社会進出の状態をみると、女性が男性と同じことをするようになったと捉えることが出来る。この視点では、女性の社会進出によって男性と女性とで大きな隔たりのあった生活様式が画一化されたので多様性は失われたと言える。


「多様性を指向する」というタイプのあらゆる言説は、この種の矛盾を内包している。


たとえばグローバリゼーション。グローバリゼーションの進化によって現代の街には外国人がたくさんいる。観光客や同僚や友達や、様々な形で外国人と関わっている。それだけなくインターネットで海外のコンテンツにも簡単にアクセス出来る。その視点で見ると多様性は増している。圧倒的に増している。しかしマクロな視点から見ると、現代は世界中の人がYoutubeを見てAmazonで買い物をしている。多様なコミュニケーションをするためにみんなが英語をしゃべるようになる。これは多様性が失われている状態である。


この問題は根が深い。


ガラパゴス諸島という太平洋に浮かぶ島がある。この島は太古の昔から海によって大陸から切り離されていたため、独自の進化を遂げている動物が多い。生物多様性という文脈ではなにかと話題の地域である。


ミクロな多様性を求めるならば、ガラパゴスにいる独自の動物たちを僕たちの社会に連れてきて暮らしてもらうのがいい。あるいは僕たちの社会をガラパゴスに持ち込めばいい。そうすれば餌はたくさん手に入れることができるし、Youtubeを見て楽しんで、Amazonでほしい物を買えるようになって、ガラパゴスの動物たちはきっと幸せだろう。僕たちとしても社会に新しい仲間が加わって新たなイノベーションが起こるかもしれない。まさにWin-Winである。


マクロな多様性が重要だと感じるのならば、目には映らない多様な世界に心を馳せて、そっとしておくことだ。

なんとなく相手の気分が分かるということ

特にアメリカの混乱を見ていると、けっこう本格的に民主主義的なものがまずいことになってるんじゃないかと思う。SNSが普及してまだたったの10年。それまで物理的な距離が守ってくれていたものが崩れているように感じる。


以下の記事で、トッドが民主主義の危機の原因としてエリーティズムを批判している。全く同意見である。エリートよりも大衆の方が正しいというのが民主主義の基本だからだ。

dot.asahi.com


もちろんエリーティズムそのものは最も重要な問題ではない。問題は、SNSによる物理的な距離の消失により、エリーティズムのようなものから大衆が守られなくなったことだ。今は「~が正しい」「~が間違っている」というような安易な言説が大衆を支配している。これでは民主主義が本来持っていた(分散コンピューティングにも似た)堅牢さは失われてしまう。


SNSのような仕組みが今後なくなることがないとすると、どうやってエリーティズム(そして対として発生するアンチエリーティズム)のようなものから自分を守っていくかは重要だ。その答えは政治的な活動ではないだろう。


僕は今は、結局のところ「相手の気持ちを考える」ことしかないのだろうと思っている。


コロナへの対応を見ても「コロナ絶対撲滅すべき」な人もいれば「それよりも日常が重要じゃわい」という人もいる。SNSとかをやっているとこのどちらかに吸い込まれていく。もちろん自分なりに考えをまとめることは大切だし、その結果としてこのうちどちらかにたどり着くならそれは良い事かもしれない。


だけど、こっち側じゃなく反対側に行った人達の気分も本当は分かるはずなのだ。反対側に行った人たちは自分と全く違う人達ではない。むしろ日本では、同じ国に生まれて同じような教育をうけて多くのコンテクストを共有出来ているのでほとんど違いがないとも言える。だから、ほんの少しでも分かろうという意思と、自分がこっち側に来る前はどうだったかをちょっと振り返れば、反対側に行った人達の気分は想像できるのだ。


エリーティズムに襲われると、反対側の人達がどうしようもなく愚かに思える(トランプ支持者や、人種差別的な老人や、西野オンラインサロンメンバー、そしてそれらから見た反対側もまたそうだ)。


その時に、反対側の人達の気分を少しでも想像することが出来れば、その破滅的な構造から逃れることが出来る。それ以外にはないのかもしない。

理系の人のものの考え方

理系が得意な人のものの考え方というのは、みんなが理科で習った「Aさんが時速5kmで2時間歩きました。進んだ距離は何Kmでしょう?」という問題に集約されている。


これの答えは10kmなのだけれど、冷静に考えれば本当にそんなことあるのだろうか。Aさんが時速5kmで歩けるとして、2時間歩いて丁度10㎞進むなんてことは、現実には起こらないだろう。


この設問自体が非常に理系的であるのは、Aさんが歩くという事象に対して再現性を見出してるところである。理系の人の世界観ではAさんが2時間あるけば、いつだって10km進むのである。この再現性を僕たちは科学的なエビデンスと言って、特に最近はこれこそが最も大切だという向きが強い。


では現実で考えると、Aさんが2時間後にどれくらいの距離歩いているかという問題は、考慮が必要なパラメータが多すぎて答えを導くのは不可能である。地球の裏側の蝶の羽ばたきが起こした嵐がAさんの行方を妨げるかもしれないし、ちょうどその日は深刻な寝不足で途中で千鳥足になってしまうかもしれない。Aさんが歩くという現象はあまりにも複雑すぎて(事実上)再現性がないのだ。


理系の人のものの考え方は「再現性の無い事象から再現性を抽出する」というのが基本にある。複雑な事象の中から再現可能なシンプルな特徴量だけを抜き出して一般化するのである。


たしかのこの考え方によって人類の技術は飛躍的に向上して僕たちの生活を豊かにしてくれている。それはそれとして、もう一方ではそれは複雑さ、現実に存在する多くのパラメータを切り捨てていることなのだということを忘れてはいけないだろう。科学が切り捨てたそれらの複雑さは、案外重要なものである。


ちかごろ「子供が数学で赤点取ってどうしよう」みたいな話を聞くことがあってそんなことを考えた。僕としては文系理系というのは上記のように複雑さと再現性にまつわる世界観の違いのことなので、数学が出来ないというのはある面ではとても良い事なのだと思う。それは世界をありのままに捉えてるということなのだ。Aさんが2時間後にどこにいるのかなんてことはよく分からないままでいい。なぜならAさんが2時間後に10km進んだという答えは、確実に間違っているからである。

ドールにくびったけ

先週末に秋葉原ラジオ会館に遊びに行ったのだけど、コロナの感染者数が東京でも過去最多を更新とか言われてるなかだったけど、みんなマスクしてる以外はいたって日常的な秋葉原だった。老若男女外人さんもたくさんいたし、客引きのメイドさんもたくさんいたし。


僕は最近週一で渋谷に通っていて、渋谷はなかなかたくましい街だなあと感じていたけど、秋葉原も負けていない。


まあ、そんなわけでラジ館内を物色していて、初めて7Fと8Fにあるドール屋さんに行ってみた。ドール屋さんとか行ったの初めてだったのだけれど、これがもうほんとかわいくてお迎えしてしまうかもしれない。やばい。


7Fのお店はazoneというブランドのお店。ここのドールたちの中でも「Alvastaria」というシリーズが独特の世界観のかわいい衣装を纏っていてすごく良かった。

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Alvastaria::商品詳細


いやーこれはかわいい。ドールのかわいさの半分は衣装のかわいさだね。近くでよく見れば見るほど服がよくできててかわいい。あー連れて帰りたい。みなさまも秋葉原に行った際には是非ラジ館の上の方へ。8Fのお店にはさらに大き目な初音ミクのドールとかも飾って合って、これがまたすごい。