世界の成り立ちを1分で読めるくらいの感じで書く

世界の成り立ちを1分で読めるくらいで説明する試み。
※ 全て私の解釈であり、元となっている情報も現時点では説の域を脱していないものが多い。
※ 様々な説があるうちもっともらしいものを記載しているけど他にも色々な説がある。


宇宙の始まり

宇宙の最初には空間が急速に膨張するインフレーション期があった。この急速というのはマジこれ以上ないくらい急速で、1秒にも満たない間に宇宙は原子レベルの大きさから現在の宇宙とほぼほぼ変わらなくくらいの大きさまで膨張した。


その後膨張が緩やかになり、膨張のエネルギーが熱エネルギーに転化され有名なビッグバンが起こる。


インフレーションやビッグバンのエネルギー源は、真空エネルギー(暗黒エネルギー)であり、空間そのものが元々持っているエネルギーである。このエネルギーのそもそもの起源は不明である。


物質の始まり

インフレーションが終わりビッグバンが始まると、インフレーションに使われていたエネルギーが転化され空間を満たしている場(電磁場等)が振動する。場が振動すると素粒子が生まれる(場の量子論)。この時に現在の宇宙を構成しているほとんど全ての物質の元となる素粒子は生成された。


初期宇宙は超高温なので素粒子はビュンビュンと飛び回っていたが、宇宙の膨張が進みエネルギー密度が下がって宇宙が冷えてくると、素粒子の運動は穏やかになり、重力によって素粒子同士が集合し始める。そして近所に集まった素粒子同士がぶつかって合体して陽子や中性子になり、またそれらが合体して原子核になり、電子とも合体して原子になる。こういう過程で物質は出来ていったので、初期宇宙は最もシンプルな水素原子だらけである。


この合体を長い時間繰り返し続けて、星が出来て、銀河が出来て、私たちの見慣れた宇宙ができた。


生命の始まり

物質がどんどん合体していって星が出来たという話を上記でしたが、同様により複雑な物質も徐々に形成されていった。その中にアミノ酸核酸のような物質もあった。そしてこれらの複雑な物質がさらに結合して、RNAという物質が生成された。


RNAは自己複製機能を持っている物質であり、他のRNAを切断して自己を複製する。そしてこのプロセス中に生じる複製エラー(突然変異)を経てRNAは多様性を持つ。


RNAが多様性を持つとRNA同士での生存競争が始まる。より効率的に他のRNAを取り込み、逆に取り込まれにくい構造を持つRNAは、自己複製を繰り返しその数を増やす。逆に弱いRNAは消えていく。この複製行為と突然変異とを長い時間繰り返すことで、より複雑で適応性のある構造を持つRNAが生まれ、そうした進化の結果として生命が生まれた。


宇宙の終わり

宇宙は現在も加速膨張を続けている。宇宙の膨張加速度は「膨張する力(暗黒エネルギー)」と「収縮する力(物質エネルギー=重力)」とのバランスで決まる。真空エネルギーは不変なのに対して、物質のエネルギー密度は宇宙が膨張するとスカスカになってどんどん低くなる。


今現在の宇宙空間は暗黒エネルギーがわずかに物質エネルギーを上回っていて、そのため宇宙の膨張速度は加速している。


膨張速度が加速しているので宇宙はどんどん膨張し続ける。そして宇宙が膨張すればするほど物質エネルギー密度は小さくなるため、暗黒エネルギーと物質エネルギーとの差は大きくなり、膨張速度はどんどん加速していく。


最終的には空間の膨張があまりにも早くなり、物質同士を結合している力が追いつかなくなる。この予想はビッグリップと呼ばれる。そうなった場合、全ての物質はバラバラの素粒子に戻り、物質世界は終焉を迎える。そしてその後も空っぽになった宇宙は永遠に膨張し続ける。

反出生主義批判

最近思うのは、いい人生かどうかというのには将来の可能性がいい方向にも悪い方向にも広がっているかどうかが重要。未来の可能性の広がりがあればそれは希望になって、それは精神的にも幸福感を感じる状態なのではないかと。


例えば子供を作るかどうかという可能性の広がりは、年齢とともに収束していく。この収束が起こると不安を覚える。子供を作った場合はその時点で子供の有無という可能性は収束する。作らなければ緩やかに収束していく。この収束はどちらも不安である。


しかし子供を作った場合、子供の成長という可能性の芽が生まれて、今度はそれが心を支えてくれる。子供を作らない場合、可能性の収束は緩やかなので猶予期間は長いが、収束しきってしまうまでの間に新しい可能性の芽を作っていないとしんどいことになる。難しいのは、子供の成長の代替となるような可能性の芽というものは手に入れられたり手に入れられなかったりすることだろう。


ところで人生というのは結局のところ最後は可能性が死という一点に収束する。闘病などの期間でそれは一気に収束していく。これが不幸だとすると人間皆不幸ということになる。でもそうではなくて人生の中に可能性がひらけていた時期があり、少しの時間でも可能性の広がりの中で生きることが出来たのであれば、それは生まれてきて良かったということではないだろうか。


元を辿れば、子供が生まれてきた時に、その子が将来どんな人になるのかが確定していない、そんな可能性の広がりの中で生まれてくることが出来たなら、それはいい人生なのだ。これは僕なりの反出生主義批判。

BABYMETALとYUIMETAL

はやいものでBABYMETALファン歴も1週間になった。BABYMETAL自体は昔からちょくちょく観てたんだけど、それはBABYMETALが好きというのではなく、海外のメタル好きのおっちゃん達が日本のアイドルに熱狂してるらしい面白ろ~!という感じでライブ映像をたまに観ていた。


だから数年前にYUIMETALが抜けたことは知ってたのだけど、メインの歌の人は残ってるわけだし、ダンサーが1人抜けただけだし、そんなに影響ないんだろうと当時は思っていた。アイドルの脱退なんて本当によくあることだし、センターさえ残っていれば対処法は蓄積されているはずだ。


それが今になって色々観てるとその影響は甚大だったんだなあということが分かってきた。それはライブパフォーマンスでのフォーメーション上の問題だけではなく、グループとしてのメンバー人気というだけでもなく、YUIMETALというダンサーの脱退がBABYMETALの音楽にものすごい影響を及ぼしていることを知った。


色々観ていた限りではBABYMETALの歴史は大きく以下の3つのフェーズに分かれる。

さくら学院の中の1つの企画だった時代
②海外でロックスターになっていった時代
③YUIMETAL脱退後


このうち特にYUIMETAL脱退前後では大きな音楽性の違いがみられる。


YUIMETALがBABYMETALの音楽に与えていた影響は以下の曲からよく分かる。

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この曲で鳴ってる音はガチガチのメタルな演奏なのだけど、YUIMETALとMOAMETALのミラクルなダンサーコンビは、この重苦しい音楽を非常にキャッチーなダンスミュージックに変えてしまう。


このコンビの真価が最大限に発揮されているのが以下の曲だ。

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つぎつぎに繰り出される変拍子でリズムもシャッフルになったりならなかったりと、プログレを彷彿させる曲である。このような普通はガチでオールドメタル好きな人しか聴けないような音楽で、本来はオーディエンスのノリを破壊するのを意図されている音楽でも、YUIMETALとMOAMETALにかかるととてもキャッチーなダンスミュージックになってしまう。これは感動的なほどにイカれている。


BABYMETALは「Kawaii + METAL」というのがオフィシャルなコンセプトになっている。しかし正確には「Kawaii + Dance + METAL」という組み合わせで勝負している。


BABYMETALのMETALを取り入れたライブパフォーマンスは以下のような構造になって成立していると考えられる。

・METAL + Kawaii = Dance Music
・Dance Music + Dance = ダンスパフォーマンス


YUIMETALが脱退してYUIMOAのコンビがなくなったことによって、上記のうちのKawaiiが機能不全に陥った。この状態でそのまま続けるとおそらく以下のようなことになり、ダンスパフォーマンスとして成立し難い状態になると思われる。

・METAL + Kawaii = METAL
・METAL + Dance = METAL


2人だけで続行すると決めたBABYMETALは、これまで通りのパフォーマンスを維持していくためにDance Musicを再構築する必要があった。そのため、以下のような構造に転換した。

・Dance Music + METAL = Dance Music
・Dance Music + Dance = ダンスパフォーマンス


この構造転換は、YUIMETAL脱退後に発売されたアルバム「METAL GALAXY」の1曲目に集約されている。

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タイトル通りダンスミュージックである「Future Bass」にメタルの要素を加えた楽曲である。アルバムのその他の楽曲をみても、ダンスミュージックをメタルでアレンジするという楽曲が主流になっている。


つまり、YUIMETALが脱退したことによって、以前のようにゴリゴリのメタルをそのままやるというのがなかなか難しくなったようだ。昔の曲はオーディエンスもYUIMETALの面影を感じているから問題なく成立しているが、新曲でやるにはかなり工夫が必要だと思われる。


もちろんそれは悪いことばかりではなく、本格的にダンスミュージックを取り入れたBABYMETALは、優秀なサポートダンサーを加えて、ダンスユニットとしてより洗練され、より多くの人にリーチするパフォーマンスになっている印象を受ける(何といっても僕もそれで好きになったのだ)。


さりとてYUIMETAL時代のイカれた音楽がまた戻ってくるといいなあと、ファン歴一週間の僕は思うのだった。ここでは触れなかったけど歌のSUMETALも信じられないくらい高いボーカルパフォーマンスなので、この3人のトリオはすごかったんだなあと、触れることのなかった過去を振り返る。

hydeがすごい

昔からラルクアンシエルのファンなのだけれど、近年はそのボーカルのhydeがソロ活動を積極的にしている。


それで今日は最新のライブビデオAnti Wireが発売されたので観てたのだけど、ほんとにこの人はすごいなという感想しかないので、ちょっと書いてみる。モンスターバンドであるあのラルクアンシエルでさえも、hydeにとっては小さな器なのだ。

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hydeは2017年末にVAMPSを休止してからソロのライブを積極的に行っていて、僕も色々と縁があってそのうちのいくつかに足を運んだ。その期間で3つのライブビデオが発売されてるのだが、そのどれもがとてもクオリティが高いので、それらを紹介していく形にする。まとめは特にない。


HYDE ACOUSTIC CONCERT 2019 黑ミサ BIRTHDAY

黑ミサはHydeが長年続けている年に1度のオーケストラを率いたアコースティックライブ。2019年は50歳の節目ということもあって、Hydeの誕生日にライブが出身地和歌山で開催され、その模様が初めて映像化されたもの。


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このライブはソロだけでなくてラルクVAMPSの曲など関わってきた様々な曲を演奏している。演奏される曲にはhico氏によってスーパーなオーケストラアレンジが施されていて、どの曲もすごくいいアレンジになって全部クライマックスという曲が並んでいる。


そしてなんといっても一番に目を引くのがhydeの歌唱力の高さ。hydeの歌はラルクのイメージが強いけど、実は2000年代までと2010年以降とで歌い方が全く違う。昔は若さにまかせたアマチュアな歌い方をしてたのだけど、それが30代後半になって身体能力の衰えから出来なくなってきた。おそらくそこで本格的に発声の研究を始めたのだと思う。その結果、今50代になったhydeは20代の頃よりぜんぜんハイトーンも出せるしピッチもニュアンスも自由自在という、スーパーな歌い手になった。


僕は好きでYoutubeの音楽レッスンの動画をよく観るのだけど、そこでボーカルのレッスンをしてる人が紅白に出たhydeをたまたま見て、こりゃ発声オタクの歌い方だと感じたのだそうだ。


そんなわけで、この黑ミサライブはhydeの歌に聴き入るためのライブビデオである。ラルクの有名な曲もたくさんやってるので、昔のラルクファンが観ても楽しめる内容である。


Anti Final

Antiはhydeがソロになってから発売したアルバムとそのツアータイトルであり、このライブビデオはそのツアーファイナルの模様を収録したものだ。


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Antiはhydeの中心的な活動である。音楽性としてはVAMPSの延長線上のラウドロックの方向性になるが、Antiでは海外のComposerを積極的に採用して、より新しくて盛り上がるロックを追求している。このAntiはとにかくライブが激しくて、hydeも観客にダイブしたりとやりたい放題である。


VAMPSを止めて始めたAntiは、hyde自身のロックの集大成となるプロジェクトだ。「体が動くあと数年でやり切る」と本人も語っていて、Antiのアルバムをひっさげてツアー車でアメリカのライブハウスを巡る過酷なツアーも行っていた。


また、このAntiツアーにはロックに慣れていない日本のオーディエンスを育てるという意図もあった。ライブビデオになっているAnti FinalはそんなAntiツアーの集大成であり、ステージ上のパフォーマンスだけでなく、オーディエンスがどれほど盛り上がれるかというのも試されるライブだった。結果として、非常にカオスなライブに仕上がっており、hyde自身もこの映像を作れてよかったと語っている。


Anti Wire

Anti Final以降もロック道の集大成を突き進んでいたhydeだが、コロナ禍の影響であらゆるライブ活動が中断してしまう。活動に対して厳しい制約を受ける中でなんとか開催したライブがこのAnti Wireである。


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ライブ開催の制約として、観客同士のソーシャルディスタンスを保つこと、発声しないことがある。この制約はhydeのやっている音楽の方向性からすると致命的であった。そんな中で考え出されたのがAntiの曲を中心としたアコースティックライブである。クリエイティビティは制約がもたらすという話はよくあるものだけど、このライブはまさにコロナ禍という制約がもたらした作品である。


アコースティックライブといっても、黑ミサのようなオーケストラを導入した華やかなコンサートではなく、アコギ/ベース/ピアノ/ドラムというミニマムなバンド構成で、まるで荒廃した街の路上で演奏してるかのようなライブになっている。これがとてもかっこいい。


前述のAnti Finalと見比べると、ほんの1年前までもみくちゃなライブをしていた曲たちが発声禁止でスタンディング禁止という静かな空間の中で演奏されていて、得も言われぬ感傷をおぼえる。しかしだからこそhydeの歌唱力は非常に際立つものがある。また、コーラスの歌詞を口が開かない「ん」にして客に歌わせてみたり、観客がストンプ(足踏み)してどんどんとリズムをとることが定番の曲を採用したりと、制約の中でも楽しめるような様々な工夫が用意されていて、非常に良いライブになっている。

新型コロナウイルスについての所感 3

新コロが流行してから1年が経ったところで、状況としては悪化の一途だろうか。基本的に当初から言われていたことから大きな変わりはなく、感染者数のベースラインが徐々に増えている。


新コロの複雑なところは非対称性にある。高齢者や循環器系の疾患を持っている人にとっては非常に危険なウイルスである。感染すると重症化して死に至る可能性が低くはない。一方で、そうではない人たちにとってはそのようなリスクは格段に下がる。


この複雑さのため進路を科学的に決断することが出来ず、僕たちには選択肢が残ったままになっている。それは低リスクな人達に普通に生活させて日常を取り戻すこと。または、全員が高リスクな人達の基準に合わせて安全を最優先して暮らすこと。この2つの選択肢はどちらも前例がなくその先に何が待っているのかが不確実なので正解がない。


今は非常に中途半端な状態で各人の判断でバラバラな行動をしている。政治権力を強化してこの選択肢の答えを政治が決めて国民を従わせようという動きも一部では待望されているが、僕としてはこの中途半端な状態がいいのではないかと思う。全員が正解ではないが、全員が間違ってるわけでもない。それが種の生存戦略としては最善だと思える。


いずれにしてもはっきりしているのは、高リスクの人にとっては非常に危険なウイルスだということだ。ここだけは本当に注意した方がよくて、感染すると死ぬ可能性が低くはない。


意外と盲点なのは、友達や同僚が高リスクなのかどうかというのは分からないことだ。普段持病の話なんてしないからね。だから結局のところ、高リスクの人は自分で防ぐのが重要だ。日常を捨てなければならないというのもキツイものなのだけれど、とりあえずワクチン接種するまでは注意するにこしたことはない。


あと低リスクの人が亡くなるパターンもある。特に初期の武漢の医療現場では若くて健康な人が次々に亡くなっている。コロナ対応下での睡眠不足問題もありそうだが、初期曝露量の大小の要因はありえる。低リスクの人は飛沫感染程度ではリスクは低いが、免疫がない状態でそれ以上の大量のウイルスに晒されると危険だと思われる。


まあそうは言っても、低リスクの人はあまり気にしすぎるのも良くないと思う。大人数で会食は避けた方がいいけど、仲の良い人と2人3人で食事に行くくらいはいいという割り切りも生きていくためには必要だろう。もちろんそういうものが必要じゃない人はいかなければいいし。


ワクチン。これもまた大変なことで、ワクチンを恐れている奴は科学リテラシーのないバカみたいな話が溢れている。しかし実際に摂取中断する国が相次いでいるのだから、急ピッチで作られた全く新しい技術であるこのmRNAワクチンを恐れるのは真っ当な感覚だったとも言える。一方で、ワクチンを接種すると5年以内に死ぬので摂取するやつはバカみたいな話もある。大変なことである。


とにかく今回のような事態に陥ると自分の中の道徳心が大きくなり、他人をコントロールしたい欲が有頂天になる。重要なのは自身の中にあふれ出る道徳心に打ち勝つことである。

シンエヴァと「式波」アスカラングレー

エヴァンゲリオンには従来より2人のメインヒロインがいる。綾波レイ惣流アスカラングレーだ。


エヴァ時代はこの2人には人気格差があった。エヴァファンから圧倒的人気を得ていた綾波レイと、少数派から支持されるアスカ、という構図が定着していた。


それもそのはずで、旧エヴァのアスカというのはハッキリ言って単に嫌な奴なのだ。謎めいていて無口だけど徐々にシンジに対して好意を示してくレイに対して、シンジくんに対して厳しい事しか言わない嫉妬深く我の強いアスカ。そのためファンがレイを支持するのは当然だった。


エヴァではざっくり言うと、綾波レイは量産されるアニメキャラクターのメタファーであり、アスカは他人のメタファーだった。そして最終的にシンジくんは綾波レイに別れを告げ、嫌な事しか言わないアスカのところに行く、というのが旧エヴァの大きなテーマだ。


レイとアスカはその後のアニメのキャラクターに大きな影響を与えたキャラクターである。レイの無口キャラはその後大流行したし、アスカはツンデレのテンプレである。しかし実は旧エヴァではアスカはほとんどデレたことがない。たとえシンジくんに対して好意を持っていようとも、それを気の利いた態度で示してくれるような気持のいいことはしてくれないのだ。何を考えているのか分からない他人。それがアスカだった。


しかしその状況は徐々に変わっていく。旧エヴァ終了後、ゲームやパチンコなどエヴァンゲリオンがメディア展開していく中で、アスカというキャラクターが様々なクリエイターたちの手によって一人歩きし始めたのだ。宮村優子はラジオで「アスカが旧エヴァ本編で言ったことないような台詞を各メディアではたくさん演じてきた」というようなことを話している。


その結果、「ツンデレ」アスカラングレーは誕生したのだ。またそれによって、ファンからのアスカ人気はどんどん上昇していった。


そんなアスカは新劇場版でも「破」から登場する。この時、苗字が惣流ではなく式波に変わっていた。いったいそれに何の意味があるのかは分からなかったが、その意味はシンエヴァンゲリオンで明らかになった。また、「破」では式波アスカと共に真希波・マリ・イラストリアスというよく分からない新キャラクターが登場するが、その意味もシンエヴァで明らかになった。


新劇場版「破」に登場する式波アスカはハッキリ言って良い奴だった。口調は相変わらず厳しくツン要素も多いが、いざというときには仲間のことを考えて行動する、まさにヒロインの立ち振る舞い。この時点で、アスカのキャラクター人気は綾波レイを上回る。


そしてシンエヴァンゲリオン


シンエヴァでアスカは衝撃的な告白をする。自分(アスカ)はレイと同じ複製品であるというのだ。


これは、エヴァンゲリオンというコンテンツを取り巻く環境と、エヴァの物語世界内との、そのメタフィクショナルなロジックがあまりにも美しい告白だった。


新劇場版でもう一度旧劇場版と同じことをやろうとした時に、アニメファンに記号として消費されていたアスカは従来の他人としての機能を果たせなくなっていた。アスカはすでにツンデレブームの源流ともいえる象徴的なアニメキャラクターになり、その人気も綾波レイを上回っている。だから、新劇場版にいるのは惣流アスカではなくその複製品、綾波レイと同じくアニメキャラクターのメタファーとしての式波アスカなのだ。


そして、エヴァの外側からやってきたものとしてマリがいる。


そのため、最後にシンジくんがアスカでなくマリを選ぶのも、旧劇場版と同じことをやろうと考えれば当然なのだ。アスカは今はもう選べない。選べないが、だからこそ「以前は好きだった」というシンジくんの告白は泣けるものがある。その台詞は24年前の嫌な奴だった惣流アスカに向けられている。

武装する国民

ミャンマーが大変なことになっている。

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また、ウイグル地区では深刻な人権侵害が行われている可能性が高いという話もある。これらは比較的近隣諸国の出来事である。


それにしても、これらの強大な権力の前になすすべがない状態をみていると、なるほどアメリカの銃所持問題は一言で銃規制すれば良いとはいえないと感じる。


現代の世界のパワーバランスでは、これらの国内ではどうしようもない問題が発生した場合にはアメリカの経済力/戦力をベースにした外からの圧力での解決が基本である。その構図ももう長くはもたないという話もあるが、いずれにしてもミャンマーの場合もアメリカが動けるかどうか次第で将来は180度違うものになりそうだ。


これは逆説的に考えると、今回のようなクーデターに対して最も脆弱な国はアメリカだと言える。アメリカ国内で問題が発生した場合には、外部にアメリカがいないので外圧による解決が望めない。アメリカの銃所持は、理念的にはそのような事態を想定して国民自身で武力解決を行うための、憲法で国民に保障されている「武装権」なのだ。またバイデン大統領のような左寄りの政治家が銃規制を進めようとするのは、イデオロギーからみても当然なのだという視点もあるといい。


みなが銃を所持することで深刻な無差別殺人事件が毎年のように起きている。しかし一方で、世界でNo1の権力者と言っていいアメリカのトップは、つねに国民からの銃口にさらされている。それこそがアメリカの立憲主義であり、それは多くの死の上にしかなりたたたないのかもしれない。


ところで日本はかなりダメであるとも感じる。憲法で戦力の保持が禁止されてから70年の年月がじわじわと日本を蝕んでいて、おそらく今はもう何も出来ない国になっている。2010年代は立憲主義という言葉が流行していたが、誰にもそのために血を流す覚悟はない。もちろんそれはいいことだとも思うが、空虚な言葉だけが空中を飛び交う国になっている感は否めない。