もっといろんな事についてゆるく話せるといいと思うな(人間だもの)

近頃は専門家重視の時代になった。


たとえば人文系がAIとかシンギュラリティとかについて話していると「数学もプログラミングも出来ないくせにAIを語るな」みたいな感じで無数の突っ込みが入る。そういう世界になっている。


おそらくどのジャンルもそんな感じだ。哲学を語りたければ原著を読めとか、音楽のジャンルは正確に分類しろとか、宇宙を語るなら数学やれとか。そんな話はいくらでもあるだろう。


これは逆に言うとみんな専門分野以外のことについてあまり語らなくなっているから、語っている人が目立つということだと思う。そういう状態になった大きなきっかけはソーカル事件だろうか。


ja.wikipedia.org


20世紀に入って物理学の数学が指数関数的に難解化していく中で、20世紀の哲学はまだなんとかくらいつこうとして色々と科学的な考え方を思想へ引用していた。ただ20世紀の物理は信じられないくらい難解なので、全て理解出来てない状態での引用となっていたわけだ。


時は1994年、そんな状況に苛立った物理学者ソーカルさんが、物理用語をあえてめちゃくちゃに引用した哲学の論文を書いて哲学の専門誌に投稿したら掲載されちゃって大騒ぎになったことがあった。これがソーカル事件と呼ばれるもので、これ以降の哲学に及ぼしている萎縮効果は大きなものがある。


もちろんちゃんと正確に話せっていうのも分かるんだけど、例えば物理学の最先端であるところの超弦理論をちゃんと計算出来る人なんて世界に1000人もいないのではないか。


だけどこの世界の空間も時間も自然も、人が生きていれば一人一人の人生に大きく関わっているものなのだ。だから専門知識がない人がこれらについて語るなというのは、いささか横暴な話だと思う。


AIにしたってそうだ。近い将来、僕たちの生活の周辺はAIだらけになるだろう。皆がAIに囲まれて生活している中で、統計や計算機を理解してない人はAIについて語るなと言うのはとても横暴な話なんだ。


僕たちの目の前にAIがあったなら、それについて考えて少しばかりの解説書を読んでゆるく話せばいい。空の向こうの宇宙が気になったら、物理学の解説書を読んでゆるく語ればいい。


僕はそうやってゆるく語れる世界が、ゆるくていいなと思うな。


とまあ、今日会社にバイトに来てる大学生の子と飲んでたら相対性理論からアラン・ソーカルの話になったのでそんなことを思った。それにしても理系の子なのにソーカルの話について来るとはなかなか見どころのあるやつである。