加害者の哲学

東浩紀さんが、反出生主義のようなものへの抵抗として「加害者」の側から考えるという事をおっしゃっている。

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まあ、内容としては東さんが今まで言ってきた事そのままで、「家族の哲学」に直結している話なのだけれど、「加害者」という概念を打ち出したのはすごく良いなと思った。


近年は、被害者の側から考えるということがほとんど無条件に良い事とされている。つまりそれは、オタクからのヤンキー批判であったり、ブラック企業批判であったり、セクハラ批判であったり、とにかく被害者の論理が色々と溢れている。直近では、京都アニメーションの放火事件に関しての実名報道批判も、被害者のことを考えた動きだろう。


まあもちろん被害者が不利益を負っているのであれば救済されるべきではあるが、これが行き過ぎてしまうと、反出生主義のような「何もしないことが正しい」という方向へ向かう。今はまさに「何もしないことが正しい」世界に突き進んでいるように思う。これは反出生主義のような極端なものに限らず、たとえば「家事も出来ないなら結婚するな」というような声はSNSに溢れている。


「被害者が救済されるならばそれに越したことはないじゃないか」と思うかもしれないが、問題なのは、僕たちは他人と干渉している限り必ず加害者になり得るという事だろう。けっきょく、どんなに良いと思う行動をしていても、人が大勢いればその行動に傷つく人は存在する。


その時に、被害者の側からしか考えられないと、加害者としての自分を受け入れることが出来ず、そんなんで傷つく方がおかしいという話に向かう。「繊細ヤンキー」のような言葉が流行しているのもその傾向だろう。少数の人が傷ついた事自体を認めないのは全体主義的な傾向だろう。


今は、行き過ぎた被害者の哲学へのバランサーとして東さんの言う加害者の哲学が必要なのだと思う。自分が加害者になることとどう向き合い、どう認めていくのか。


まあ、難しい問題ではあるのだけど、「しょうがない」とか「知らんがな」とか、そういう被害者を突き放す言葉をすこし心に置いておくのがいいだろうか。結婚を例にとれば、社会には理想的な結婚生活が出来ない人の方が多いだろうが、ちゃんとした結婚生活を作る能力がないから結婚しないという方向へ突き進むのではなく、駄目な結婚でもしょうがない、それでパートナーが怒っても知らんがな、そういう風に考えていかないと本当に何も出来なくなってしまうだろう。


被害者は救済されるべきではあるが、だからといってすべて救済する必要はないのだ。