人生のみじかさについて / セネカ

通勤中に時間が余ったのでKindleをあさったら、「人生のみじかさについて」という本があったので読んだ。いつの間にか購入してダウンロードしていたみたいだった。情報過多の時代になって記憶力の低下が著しい。

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)


セネカさんの本。古代、ローマ皇帝ネロの教育係だった知識人。といっても著書ではなく、知人宛てに送った手紙が書籍化されたもの。おいお前、そんな多忙な仕事なんてやめちまえ、という手紙だ。


この手紙では人生の”長さ”について語られる。多くの人は死ぬ間際になって人生とはなんと短いのかと嘆く。しかし実際には人生には何十年という十分に長い時間がある。とはいっても人生は有限であり時間は容赦なく過ぎ去っていくが、多くの人はまるで人生が永遠に続くかのように無駄に時間を浪費し、自分の人生のために時間を使うことがなく、最後になって自分のために使った時間の短さに気が付く。


人生の周囲には時間を奪っていくものが溢れている。例えば仕事だ。仕事に多くの時間を費やしてしまえば、自分のために使える時間はその分だけ短くなる。仕事だけではない。酒、恋人や友人、娯楽、創作。あらゆるものが人生から時間を奪っていく。


自分のために生き、長い人生を送るには暇にならなければいけない。しかし多くの人は暇を暇のまま過ごすことが出来ない。時間が出来れば怠惰になり、娯楽に興じ、酒をのみ、恋人とデートや喧嘩をし、あるいは絵を描いたり歌を作ったりする。時間があれば何かを始めたがって、たった一度きりの人生の時間を浪費してしまう。


英知の探求をしている時、暇な時間をすごしているといえる。特に歴史を学ぶことが重要だ。歴史を学び、歴史上の人物たちと親しくなれば、人生を現在から遠い過去へと拡張することが出来る。そうすることによって、人生をより長いものにすることが出来る。



・・・、という感じの本。



ここ最近、「自分の人生を生きる」というのがある種のスローガン的に頭の中にあって、そういう意味ではなかなかタイミングよく読んだ感じがする。まあ、恋人も娯楽も創作活動も、なにもかも時間の浪費にすぎないというのは極端な話かなと思う。特にこれは知人を説得するための手紙だとすれば、内容を盛っている面もあるのかもしれない。


先日読んだ「群集心理」。他者からの評価値の大小が最も重要である民主社会や資本主義社会(そしてそれらを加速するSNS社会)では、他者からの高い評価を得るために他者を操作することが重要となり、社会は評価値獲得ゲームで溢れかえり、結果として人々は他の誰かに操られた状態で生きるようになる(=群衆化)。という話。


「人生のみじかさについて」と「群集心理」とをつなげて考えると、人生の時間の浪費とは、他者に操られたまま時間を過ごしてしまうことと考えることが出来る。現代の社会では自分が他者に操られているかどうかを判断するのはとても難しい。


昨今、「好きな事をやる」ことが自分の人生のために大切だという言説が主流のように思う。例えばYoutuberのように、好きな事を仕事にすることこそが自分のために生きるという事なのだ、と。しかし本当にそうなのだろうか。ゲームを楽しんでいる人は、なぜゲームが好きなのか。誰かの広告に操られているだけなのではないか。創作活動をして作品を発信している人、なぜ創作活動をするのか。創作活動が尊いという社会の規範に捉われているだけなのではないか。まあこれは考え出すとキリがないが、民主社会にこのような性質があるのはたしかで、受動と能動との境界は曖昧だ。


そうそう結論の出る話でもないのだろうけれど、自分の人生を生きるということについてもう少し考えてみようと思う。おそらく唯一意味があるのは、死ぬ間際、資産や地位や名誉や友人や恋人といった諸々のものが全て失われようとしているその時に、自分の人生について何を思うかなのだ。