引きこもり健康法
最強に不健康な引きこもり生活を送っているのにも関わらず健康診断でA以外取ったことがない僕の健康法を書こう。健康診断A判定である者の使命として書かなければならないだろう。といっても引きこもってるだけなので大して書くことはないのだけれど。
ちなみに僕は今年こそ死ぬんじゃないかと毎年思って生きている。なぜならば一般的な視点から見れば不健康極まりない生活を送っているからだ。でも健康診断はA判定しか出ない。この不整合がどこから来るのかを考えてみた。そこから導かれたのが何を隠そうこの「引きこもり健康法」である。
では、ご覧いただこう。
運動をしない
多くの人が勘違いしているが基本的に運動は体に悪い。一般的に運動はすればするほど不健康になる。なぜならば運動すると体は酸化するからだ。腎臓にも負担がかかる。
ただし健康のためには新陳代謝を上げないといけない。だから運動をして筋力をつけて代謝を上げることは大切だ。
大事なのは、運動による身体の酸化と代謝の向上とがトレードオフになっているということを意識することだ。つまり効率的な運動を少しだけするのがいい。だらだらと運動をしてはいけない。
効率的な運動というのは基本的に脚の運動だ。両脚には体の半分以上の筋肉が集中している。だから脚の運動をすると短時間で大きな効果が見込める。
おすすめなのはスクワットだ。引きこもっていても簡単に出来る。引きこもっていると家が散らかっていて腕立て伏せとかするスペースがなかったりするだろう。スクワットはどこででも出来る。スクワットは完全運動なのだ。
薬はなるべく飲まない
毒を飲んで毒を制す、それが薬だ。もちろん重篤な症状の場合には毒が必要になる場面はある。しかし安易に使いすぎるのはよくないだろう。
薬もやはり症状の緩和と毒を飲むということのトレードオフになっていることを意識するのが大切だ。風邪を引いた時に大したことのないレベルの症状であれば解熱剤や咳止めなどを飲むべきではないだろう。
これに関しても引きこもりは健康だ。よほどのことがなければ部屋から出て店員さんと顔を合わせてまで薬を買いに行こうなんて思わないし、なんといっても体調不良になったら家でゆっくり休むのが一番だ。家でゆっくり休むとかもはや引きこもりの自然状態とも言っていい。
ただし歯医者と健康診断には行った方がいいだろう。
自分のクロノタイプに合わせる
眠くなったら寝て、目が覚めたら活動する。健康的な生活とはそういうことだ。逆に言えば、目覚まし時計ほど不健康を助長するものが他にあるだろうか。
特に最近は個人個人の最適な活動時間帯は遺伝子レベルで決定しているということが分かってきている。朝型や夜型というクロノタイプを人それぞれがもっている。それに合わせて生きていくのが健康のためには重要。もちろん引きこもりにとって眠くなったら寝て目が覚めたら起きるというのは自然状態と言っていいだろう。
野菜を食べる
外出して食事を適当に菓子パンや牛丼で済ませてしまうのはよくない。しっかりとした食べ物を毎食食べよう。特に野菜が重要だ。風邪ひいてドラッグストアで薬を買っているお金があるなら全て野菜につぎ込むべきなのだ。
もちろんお肉を食べることも大切だ。炭水化物は最近何かと話題だけど、まあほどほどに食べておけば問題ないだろう。
引きこもりならばその有り余る時間で以て野菜を調理することは簡単だろう。家で食事をするなら、カット野菜や冷凍野菜などいろいろと簡単に食べれる野菜が市販されている。こいつらをちゃちゃっとレンチンしたり炒めたり茹でたりして食べるだけでいいのだから、ご飯は家で食べるのが最強だろう。
外に出ない
紫外線は細胞組織を破壊する高エネルギーな電磁波だ。日本なら紫外線で直接的な健康被害は出ないかもしれないが、少なくとも紫外線を浴びないというのはあらゆるスキンケアに勝るだろう。
また、都会のような人口密度が高い空間には病原菌が溢れている。今年もはしかや風疹やインフルエンザが話題だった。病原菌から距離を置くのは体を守るための大前提だろう。
そもそも人が密集している空間というのはストレスが多い。今日も秋葉原駅でおじさんたちが殴り合っていた。混雑している電車で知らない人にプライベートエリアを侵食されたらそりゃあものすごいストレスだ。ストレスは健康の大敵だ。我々はストレスマネジメントをしなければならない。
さて、もうお分かりかもしれないが、引きこもることこそが最大の健康法だったのだ。
誰かのクロノタイプに合わせただけの規則正しい生活とやらを強いられて、アウトドアアクティビティで体を酸化させ、仕事がきついからと薬で体を無理やり動かし、忙しいからとファストフード漬けの生活。
そういうものから距離を置き引きこもることこそが健康診断A判定への道なのである。
野菜
何はともあれ野菜を食べるのがいいと思う。野菜は裏切らない。野菜。野菜しかない。
一人暮らしとかだと野菜を摂取するのなかなか難しいけど、習慣化してしまえばそれほど難しくもない。
肉食べたりファストフード食べたりカップラーメン食べたりするのもいいから一緒に野菜を食べるのがいい。
コンビニサラダは150円くらいで食べれるのでよい。
よくコンビニのサラダは栄養ないとかっていうけど、食べないようり100万倍いい。
あと最近おすすめなのは冷凍ブロッコリーだ。
レンチンしてドレッシングとかマヨネーズとかで食べるだけで美味しい。
水にコンソメとブロッコリーをぶっこんでスープにするのもいいだろう。
ちょっと自炊してみようかなっていう人にはyamameさんの動画がお薦めだ。
こんなに野菜を美味しそうに料理する動画を観ていると、野菜食べたくなってくる。
このハードボイルドな世界で野菜を制した者だけが生き残るのである(健康的な意味で)
【感想】無職転生 / 理不尽な孫の手
知人に薦められて、近々アニメ化もするとのことで無職転生を読んだ。
- 作者: 理不尽な孫の手
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / メディアファクトリー
- 発売日: 2014/04/24
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「小説になろう」という小説投稿サイトで昔から根強い人気を誇っている作品らしい。以下で無料で全編読める。
あらすじ
34歳職歴無し住所不定無職童貞のニートは、ある日家を追い出され、人生を後悔している間にトラックに轢かれて死んでしまう。目覚めた時、彼は赤ん坊になっていた。どうやら異世界に転生したらしい。
彼は誓う、今度こそ本気だして後悔しない人生を送ると。
全体のプロットとしてはドラゴンクエスト5(ビアンカとかのやつ)が連想される。物語が大きく分けて少年時代と青年時代の2部構成になっているところや、両親のことや結婚出産などのイベントが大きな比重を持っているところなどだ。
少年時代編の物語はいわゆる「なろう系小説」といえる。魔物がたくさんいる世界を冒険し、転生前の記憶や経験、そして圧倒的な魔法の才能を駆使して様々な困難を乗り越えていく物語だ。この時点でもたくさんの魅力的なキャラクターが登場して広大な世界を冒険する話でとても面白いのだが、見方を変えればライトノベルにおけるベタといえるようなストーリーともいえる。
そして無職転生の真骨頂は青年時代編から始まる。
この物語のユニークさを一言でいうと主人公が「大きな物語」を引き受けていないところだろう。主人公自身は元の世界に帰りたくもないし、強大な敵を倒して世界平和を成し遂げるとかの目標があるわけでもない。ただただ個人的な欲望に従って生活している。
主人公は日々のお金を稼ぐために冒険する。そのうち推薦された魔法学校にも入学してスクールライフを送る。学園仲間と商売したりもしてみる。そのうちに恋愛とかも始まって家族も出来る。そんな中で友達や家族にふりかかる困難を場当たり的に解決していく。そうこうしているうちに話が大きくなっていって・・・、という感じだ。
この物語の中心的話題の1つが家族だ。青年時代編は家族をどんどん増やしていく物語とも言える。無職転生の最大の人気の理由が「幸せそうな家族像」を描いているところだと思う。もちろんその家族は主人公以外ほぼ(萌え)女性とかいう感じでコンテンツ化されてたりもするんだけど、むしろそれによって家族っていいものなのかもしれないなという気にもさせてくれる物語だ。
特に今は家族や結婚がネガティブに語られる時代だから、そんな気分の転換にはとてもいいのではないだろうか。
いやーしかしこれは長かった。280万文字、単行本にして20巻以上だろうか。一気に読むのはけっこう大変だったけど、とても面白かったので読んだ良かった。サイトで読めばタダですよタダ。
逃走の哲学
13年前にニコニコ動画が登場して、ネット上ではそれまでの社会とは明らかに違う視点から様々な議論が行われるようになった。
その中心的な話題だったのは「逃走」だ。社会に用意されているレールからは逃走してもいいのだ。そこで語られていた逃走のための理論を「逃走の哲学」と呼ぶことにする。
学校でいじめられているなら不登校になっていい。異性との人間関係に問題があるなら結婚しなくたっていい。働かなくてもいい。大人の言うことを聞かなくてもいい。不快ならば逃走すればいい。
マイノリティはマジョリティや規範に合わせて生きていく必要はなく、そこから逃走してもいい。そのための論理基盤が逃走の哲学だ。
これはとても正しい考え方だし、僕も当時の抑圧的な日本社会にあって新しかった逃走についての議論が本当に好きだった。このような考え方は僕だけでなくある種の多くの人々に喜んで受け入れられた。
しかしこれには問題があった。それは10年経って徐々に明らかになってきた。
その問題点とは、逃走の哲学は「逃走」のための哲学だということだ。人生や社会を構築するための哲学ではないのだ。
しかし今では逃走の哲学が指し示す価値観を使って社会を作り直そうという動きが活発になっている。そして様々なハラスメントの文脈が生まれている。
男性が女性を口説いたらセクハラ。独身成人に結婚を勧めたらマリハラ。上司が部下を叱ったらパワハラ。たしかに逃走の哲学のロジックからするとこれらの運動は一見正しいように見える。
しかしそうではない。「Aから逃走する」のと「Aに近寄らない」のとは、一見同じようで全く違う。「不快だったら帰っていい」と、「誰かが不快になる可能性がある事はやるべきではない」とでは全く違う。
今はこれがごっちゃまぜになって同一のものとして語られるようになっていると思う。そしてそれは間違っている。
逃走の哲学が与えたものはセーフティネットのようなものだ。どうしても辛くなったらそこから逃げ出しても死ぬことはない。そのための思想的な道具だ。しかしその場所はしょせん避難場所でしかない。そこに長くいるとどんどん孤立してしまう。一般的に孤立は不幸の最大の原因だ。
最近、千葉雅也さんの「動きすぎてはいけない」という言葉をよく思い浮かべる。あるいは「勉強の哲学」でも同じことを言っている。勉強してバカになって固定化されたノリから脱出するのが大切だ。しかし離れすぎてはいけない。ユーモアを手に入れてもう一度そこに戻るのだと。
- 作者: 千葉雅也
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「逃走の哲学」でも、おそらく逃走後に「もう一度もどる」ことがとても重要だ。ただし全く同じ場所に戻るのではなく、すこしだけずれた場所に戻るのだ。
人間関係が嫌になったら逃走して別の人間関係に移ろう。異性にこっぴどく馬鹿にされたら逃走して別の異性のところに行こう。仕事が嫌になったら逃走して別の仕事をやろう。
そうやって自分の居場所を少しだけずらすために逃走の哲学を使う。逃走の哲学が指し示す避難場所に固定化されてはいけない。そこにあるのは孤立だけだ。だからもう一度戻るのが大切だ。
まあ要するに「逃げてばかりじゃ幸せになれないんじゃないか」という話だ。逃げることとチャレンジすることを両立することが大切だ。
東浩紀5.0と、脱構築の実践者としての「はあちゅう」
東浩紀さんが5.0にメジャーバージョンアップしたようだ。ポストモダン的な子供の哲学から脱却して、大人を脱構築する哲学を重点的にやるということだ。脱構築というのは「言葉の定義をずらす」みたいなことだ。
突然呟きますが、きわめて一般的に、「立派な大人の保守的なひと」と「子供っぽいラジカルなダメなおれら」がいて、哲学や文学や芸術は後者につくのだという発想そのものが、もっとも既存の「大人」にとって都合がよく、保守的な制度を生き残らせるものだということはみな知ってほしいと思います。
— 東浩紀5.0 (@hazuma) 2019年3月29日
僕も最近はこの問題意識は大きい。東浩紀さんが批判している「子供の哲学」というのは、簡単に言えば「俺は俺なんだからほっといてくれ」という主張に論理的な正しさを与える哲学だ。この主張はダイバーシティの文脈と結びついて今ではかなりの影響力を持っている。
しかし実際のところ「ほっといてくれ」とはいかないのだ。僕たちは物質と反物質のように、男女1/2で出生する確率の場の中に生まれてきている。だから基本的には男性1人と女性1人とはセットで生まれるようになっている。その場の中で男性が孤独になるということは女性が孤独になるということとダイレクトに繋がっていて、つまりこの社会に生まれた時点で周囲と無関係ではいられない。
といっても無理して結婚しろっていうのもなかなかつらいし、僕としては開き直るのではなくて独身は独身の負い目をもって生きていこうくらいの感じがいいんじゃないかと思っていた。負い目をもてというのは、要するに大人との繋がりをもてということだ。開き直ってしまうといつか本物の孤独にやられてしまうと思うから。
東浩紀5.0というのは大人を脱構築して家族を脱構築して、大人の共同体をもっとゆるいものに定義し直そうということだと思う。一時的な興味関心だけで集まったり解散したりするサークル活動的共同体ではなく、時間的継続性をもった、しかし今よりももっとゆるく参加出来る大人の共同体が必要だと。僕はこれにはとても賛成するのだ。
ただ、僕は「家族の哲学」と「独身の哲学」は共生する必要があると思う。
大人や子供にしてもそうで、その両方は必ず同時に存在する。大人の脱構築には同時に子供の脱構築もセットになっている必要があると思う。東さんが「子供の哲学では大人を脱構築出来ない」と言っているのは、逆に「大人の哲学では子供を脱構築できない」ということでもあるわけで、両方必要なんじゃないかなと思う。東さんは大人を「普通の人達」と言ってるけど、今の時代はたぶん僕も含めて子供がたくさんいるから、そっちはそっちでなんとかしないといけない。
あと脈絡なく「はあちゅう」なのだが、彼女は大人の脱構築をけっこう実践しているのではと思うのだ。姓を変えたくないから事実婚。夫の職業によるネガティブな世間体にも抗う。全て正しいことをしてるとは思わないけど、一般的な大人の定義をずらそうとしている実践者であることだけは疑いようがない。
とかいいながらも話は単純で、はあちゅうのことけっこう好きだからはあちゅうと話てみてほしいなと思うのだった。まあもちろん東さんがあの界隈について批判的なのは知っているので難しいかな。
もっといろんな事についてゆるく話せるといいと思うな(人間だもの)
近頃は専門家重視の時代になった。
たとえば人文系がAIとかシンギュラリティとかについて話していると「数学もプログラミングも出来ないくせにAIを語るな」みたいな感じで無数の突っ込みが入る。そういう世界になっている。
おそらくどのジャンルもそんな感じだ。哲学を語りたければ原著を読めとか、音楽のジャンルは正確に分類しろとか、宇宙を語るなら数学やれとか。そんな話はいくらでもあるだろう。
これは逆に言うとみんな専門分野以外のことについてあまり語らなくなっているから、語っている人が目立つということだと思う。そういう状態になった大きなきっかけはソーカル事件だろうか。
20世紀に入って物理学の数学が指数関数的に難解化していく中で、20世紀の哲学はまだなんとかくらいつこうとして色々と科学的な考え方を思想へ引用していた。ただ20世紀の物理は信じられないくらい難解なので、全て理解出来てない状態での引用となっていたわけだ。
時は1994年、そんな状況に苛立った物理学者ソーカルさんが、物理用語をあえてめちゃくちゃに引用した哲学の論文を書いて哲学の専門誌に投稿したら掲載されちゃって大騒ぎになったことがあった。これがソーカル事件と呼ばれるもので、これ以降の哲学に及ぼしている萎縮効果は大きなものがある。
もちろんちゃんと正確に話せっていうのも分かるんだけど、例えば物理学の最先端であるところの超弦理論をちゃんと計算出来る人なんて世界に1000人もいないのではないか。
だけどこの世界の空間も時間も自然も、人が生きていれば一人一人の人生に大きく関わっているものなのだ。だから専門知識がない人がこれらについて語るなというのは、いささか横暴な話だと思う。
AIにしたってそうだ。近い将来、僕たちの生活の周辺はAIだらけになるだろう。皆がAIに囲まれて生活している中で、統計や計算機を理解してない人はAIについて語るなと言うのはとても横暴な話なんだ。
僕たちの目の前にAIがあったなら、それについて考えて少しばかりの解説書を読んでゆるく話せばいい。空の向こうの宇宙が気になったら、物理学の解説書を読んでゆるく語ればいい。
僕はそうやってゆるく語れる世界が、ゆるくていいなと思うな。
とまあ、今日会社にバイトに来てる大学生の子と飲んでたら相対性理論からアラン・ソーカルの話になったのでそんなことを思った。それにしても理系の子なのにソーカルの話について来るとはなかなか見どころのあるやつである。
【感想】日本再興戦略 / 落合陽一
『耳で聴かない音楽会』を知って落合陽一さんにとても興味が湧いている今日この頃。著書もいくつか読んでみようと思い、まずは「日本再興戦略」を読んでみた。
- 作者: 落合陽一
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2018/01/31
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この本っていわゆる左派の人達からけっこう評判が悪いんだけど、読んでみてなるほどね~という感じ。この本では軍拡とかについても触れていて、イデオロギーに触れる話題はその時点で半分の読者を失うことになるけど、だからといって売り上げのためにタブーにするのがいい事だとは思わないしこれはこれでいいのではないか。
それはともかく僕はこの本をとても面白く読めた。面白いなって思った箇所はいくつもあるんだけど、ワークライフバランス批判が特に好きだ。
近頃は労働時間を減らして私生活の時間とバランスを取ろうという世論が大きくなってきてるんだけど、落合さんはそれじゃダメだよと言う。日本社会が欧州化する前の江戸時代までは、日本人は生活と仕事との境界が曖昧でもっとだらだらと働いていたというのだ。そしてそれこそが日本人のメンタリティに合っている働き方であり、逆に始業終業時間をきっかり決めたってストレスは減らないのだと。
僕はこの考え方にとても賛成する。以前、労働時間減らせという世論が大きくなってた時に↓のような記事を書いたのだけど、僕たちが改善すべきなのは労働時間ではなくストレスなのだという意識は昔からある。
ここだけの話、僕はもう8年間くらい目覚まし時計を使わない生活を送っている。仕事の始業時間も就業時間もめちゃくちゃだし、仕事中にSNSやネットサーフィンをがんがんするわでかなりだらだらやっている。そのかわり、暇な時には休日でも仕事をする。
僕はそんなゆるい働き方が、少なくとも自分にとっては合ってると思ってるし、落合さんの言ってる事はとても理解出来るのだ。労働時間を減らすよりも、だらだらと働けるようになると良いと思うな。
それ以外には、アートを教育に取り入れようという話はすごく良いと思った。アート作品の文脈を勉強することで複雑さを学習出来るとのことだ。
あと僕は思ってるんだけど、アートはこの21世紀ではとても重要なものになるのかもしれない。20世紀の間、人類はテクスト分析的に人類とか社会とか生き方とか様々な物事を考えてきた。そして21世紀はアート視点で世の中を考えることになるのかもしれないという予感がある。だからアートを学習するのは重要な事かもしれない。
まあ、そんな感じで僕は「ワークライフバランスとかまじダメ」と「アートだ!」というところが一番心に残ったかな。他にも複数のコミュニティに所属して移動し続けようとかいい話は多い。「ええ!?」って思うようなラジカルな感じなのもあって面白いので、イデオロギーに触れるところとかは読み飛ばしたりとかしながらでも読んでみると面白いのではないかと思う。